今日、フィギアスケートのグランプリ・ファイナル出場選手が全て決まった。

今、真央ちゃんは、どうしているのだろう。

フィギアスケートは、声楽にとても良く似ている。
全体の流れ、演技や演奏を包括的に把握し、自分が得意または可能な技を織り交ぜて一つの純度と精度の高度な技術を演技・演奏する。自分の最も得意とする技や技術を最大限に活かす事の出来る「音楽」を厳選して演技に臨む。ジャンプやスパイラルやステップ、超高音や超低音やアジリダや20拍ものロングブレスなど、自分自身の持てる可能な限りのテクニックを駆使する。調子が悪い時には、ジャンプのコンビネーションの組み合わせを変えたり、ブレスの箇所を変更したり増減したり、カデンツァのバリエーションを変更したり最高音を下げたり、瞬時の的確な判断能力によってミスを最小限に止める技術が非常に重要である。音楽に効果的な衣装を選択したり、自分の好きな色やポテンシャルを高める色を厳選する。音楽に自分自身の持てる全ての技術で感情や感性を表現する。高度なテクニックだけでは人間の感情を表現しきれず、感情的表現だけでは美しい芸術とはなり得ない。技術だけでは不十分極まりなく、年齢は然る事ながら、身体的・精神的成長によって表現能力を成長させる事の出来る可能性を内包している。無論、声楽とフィギアスケートでは、その年齢的範疇に乖離は存在するのだが。

そして、最も類似している点は、自分自身に最も厳しい試練を課し自ら苛酷な鍛錬に耐える事でしか、結果を導き出す事が難しいという事である。


もう一つ、とても声楽に似ているものがある。
魔法は、声楽に歌に、とても良く似ている。美しい呪文は美しい言葉で聖なる力を与えられる。呪いの呪文は恐ろしい言葉により心や体や命に致命的な苦痛や打撃、時には死を与える。言葉を操るという点では、魔法と歌は非常に似ている点が大きい。美しい言葉は善き力を与える呪文に、恐怖の言葉は呪いや死を与える呪文に変わる。言葉の威力という点、それらが与え得る美や感情という範疇に於いて、歌と魔法はとても近い存在であると、私は考えている。
私は、映画「ハリー・ポッター」シリーズが大好き。DVDも、「不死鳥の騎士団」までは全て持っている。でも、最新作はまだ観ていない。劇場には観に行かない。だって、酒呑みながら観る事が出来ないし、重要な場面を即座にリピート出来ないからだ(爆)
ハリー・ポッターは試練の連続だが、絶対に決して「英雄ポッター物語」では無い。そして、いつも「死」と向き合い、「死」を背負いながら物語は展開する。私の最も愛する、最も得意とする、最も身近な、最も必要な、そして人間から決して絶対に永遠に切り離す事の出来ない「死」。「死」があるからこそ生は輝き、正義も感情も愛も裏切りも屈辱も名誉も謙遜も隠匿も、人間にとって大いなる財産となる。これら全てに立ち向かい打ち勝つなんざ、ハリー・ポッターでも不可能だろう。最も大切で必要で人間自身が最も逃げてはならない事は、あらゆる苦難や逆境や不幸や危機を、乗り越える事でも無く、逃げる事でも無く、挑む事でも無く、逆らう事でも無く、たった一つだけ「向き合う」事だけだと、私は考えている。


それが出来ない人間を「臆病者」と私は呼んでいる。


その為には、フィギアスケートでも魔法の呪文でも声楽でも、観察・分析・対策・計画・立案・実行・評価etc・・・・・そして繰り返し。

いつの世も、どのような分野も、「美」の実現は非常に手間暇がかかる(苦笑)

で、真央ちゃんは今どうしているのだろう???
人間である以上、天才にも試練は必要なのだろうか(苦笑)
問題は、真央ちゃん自身が、何と戦い何と向き合い何を目指しているのか、という事ではないのだろうか。
結果や成績の如何で応援したり支持したり、そういう美的感覚の欠片も存在しない嗜好性は尊敬するに値しない。
真央ちゃんが、例えどのような形であれ、戻って来る事をいつまでも待ち続けたいと思う。
本当の味方とか、愛情とか、信頼とか、憧れとか、期待とか、そういう気長なカンジでいいんじゃないかな、と思う(笑)