今日は、今年最後の自己練習。
来年リサイタル予定のシューマン歌曲11曲の速度の確認。メトロノームを使用して曲の速度を調整する。ピアニストにどの程度の速度で歌うのかを伝えるために、それと、作曲者指定の速度で歌えるようになるための調整と、調整可能範囲での速度をある程度セレクトしておかなければならない。シューマンの指定速度通り歌う事が出来ればベストだが、ブレスが続かない場合や、曲の表現の幅による最低限度の微調整が必要である。
11曲と言っても、シューマンのリサイタルの選曲は今年春にはもう済ませてあったし、過去に谷岡先生からレッスンを受けた曲もあるし演奏会で歌った事のある「献呈」もある。だから、それ程声をしっかり出す必要も無い。今日は、先日の練習時よりは多少疲労も取れて体力も回復したが、それでも少しきっちり声を出そうとすると、すぐ声帯の疲労を感じてしまう程度の調子だった。だから、飽くまでも鼻歌程度の自己練習に留めた。
今日もシューマンを歌っていて一番感じた事は、シューマンが非常に歌い易くなったというか、表現がしやすくなったというか。これはやはり、クレオパトラを含めてヘンデルのリサイタル9曲を歌い切る事が出来たという結果に大きく起因していると考えている。今迄は、ドイツリートを歌う時には比較的軽めの発声を心掛けて来たのだが、今は今年のドイツリートのリサイタルの時に比べてかなり声の響きが太くなってはいるのだが、自分の声の響やふくよかさや丸さを考えると、これ以上声の響きを細くしたり軽くしたりは、したくないし出来ないな、という感覚を強く感じた。来年の谷岡先生のレッスンでどのように評価されるのかは分からないが、取り敢えず今はこのままの発声で歌う予定である。
特に、シューマンは楽譜に速度指定が多い。きちんと歌えるようにしておかなければならない。

それと、来年ウィーンに行けない場合も想定して練習をしなければならない。ウィーンに行く事が出来ても行く事が出来なくても、シューマンのリサイタルを行う事は既に変えようが無い現実である。但し、そうすると来年夏の千葉でのヤンクミとの演奏会で何を歌うのかを考えなければならない。シューマンはウィーンでレッスンを受けてきてから歌いたいと考えている。しかし、シューベルトのバラードやバッハやベートーベンなどのような難易度の高いリートは、日本でのレッスンだけでは演奏会では歌えない。そう考えると、日本である程度のレベルに持って行けるのは、ハリセン先生&谷岡先生のお家芸、モーツァルトとなる。それも考慮しながら今後の練習やレッスンを行っていかなければならない。

クレオパトラを含めたヘンデルのアリア9曲を歌った結果、非常に声帯を鍛える事が出来たし、声も強さを増したと今日の練習で認識出来た。今後喉を壊さない痛めないように慎重に練習を重ねて行く事が出来れば、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」のドンナ・エルヴィーラはイケる、と考えている。今の私の声ならドンナ・エルヴィーラをウィーンに持って行く事が出来なくても、何とか演奏会本番に乗せられるレベルに持って行く事は出来る。そういう意味では、やはり夏のヤンクミの演奏会は、モーツァルトか。

自己練習の最後、少し余った時間でシューベルトの歌曲を3曲歌った。「Fischerweise」「Dem Unendlichen」「Thekla」の3曲。どれも来年のウィーンのコンチェルトハウスのB先生のレッスンに持って行こうと考えている曲である。「Dem Unendlichen」は以前バリトンの先生のレッスンの時に持って行った事のある曲である。ジェシー・ノーマンの録音をもう何年も何年も聴いてずっと練習して来た。今の自分の発声ならばきっと演奏会で歌えると考えているが、これも出来ればウィーンでレッスンを受けてから演奏会本番で歌いたい。そういう意味ではシューベルト「Der Zwerg」と同じであるのだ。

取り敢えず、来年に入ったらイタリアオペラの勉強や譜読みや音取りも始めなくてはならない。当面、ミルヒー先生のレッスンはモーツァルト「コジ・ファン・トッテ」フィオルデリージのアリア「Come scoglio」になるが、同時にヘンデルの勉強も行う。まずクレオパトラの残りのアリアとレチタティーヴォの勉強と、件の「輝かしいコロラトゥーラでは無く、表現のためのコロラトゥーラ」を目指すべく、まずはヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のシーザーやトロメーオやニレーノのアリアも勉強の視界に入れている。ヴェルディ「La traviata」ヴィオレッタのアリアを、そこいら辺のソプラノ歌手のような輝かしい見世物紛いのコロラトゥーラで歌うという愚を犯さないためには、まずコロラトゥーラを表現として十分に歌えるような技術と実力を自分自身のものにしなければならない。そのためにヘンデルの勉強を続ける。
今迄は、ヴィオレッタの勉強に関しては色々な歌手を聴いたり観たりしていた。マリア・カラス、モンセラ・カバリエ、エヴァ・メイ、レナータ・スコット、マリエッラ・デヴィーアなど。でも、ミルヒー先生の御指定はマリア・カラスである。私は、マリア・カラスは非常に素晴らしい歌手だとは思うのだが、はっきり言って好みの歌手では無い。しかもヴィオレッタともなると余り参考にしようとは考えていなかったというのが正直な所である。カラスの声は、所謂典型的なヴィオレッタ歌いの美声とは異なるというのが私の認識である。
しかし、この私自身の認識に非常に大きな落とし穴があった事にようやく気が付いた。ヘンデルのリサイタルの勉強で読んだ、ウィントン・ディーン著「ヘンデル・オペラセリアの世界」での著者の言葉、

「コロラトゥーラの目的は表現であり、輝かしさのためのものではない」

という記述で認識を新たにした。何故、美声では無いマリア・カラスが稀代のヴィオレッタ歌いとして世界の高い評価を受けたのか。今更言うまでも無い。カラスのヴィオレッタに於けるコロラトゥーラの技術は、輝かしい声自慢のための技術の手段では無く、適切な表現に適ったコロラトゥーラであったからである。それが今だからこそ分かる。何故ミルヒー先生がカラスを勉強するよう私に言ったのか。私は決して世の中の多くのありふれたヴィオレッタ歌いのような美声のソプラノでは無い。だから、敢えてカラスを勉強する価値は大いに存在する。
今後、ヴィオレッタの勉強に関してはカラスに絞って行こうと考えている。その他は、せいぜいカバリエに留めるつもりである。自分の表現したい歌いたい演奏を作り上げるためには必要最低限のものがあれば良い。その他大勢の他人と同じ事を努力してまでやる必要はどこにも存在しない。私は私自身にしか出来ない事をやりたい。カラスの真似でも何百回もやれば、決してカラスと同じにはなり得ない。それが勉強と研究という事の真の意味に於いての結果と結論であるというのが私自身の持論である。

単に聴き手を喜ばせるような美声も歌唱も技術も、ただ歌を勉強し歌う事をのみを望みとする私にとっては、何等不必要な事である。

今日、練習から帰って来た時、丁度フィギアスケート全日本選手権フリーの真央ちゃんの出番だった。ちゃんとビデオ録画して行ったのだけれど、ちゃんと真央ちゃんの出番で帰宅出来る辺り、いいカンジ(笑)
真央ちゃん、優勝おめでとう!!!4連覇おめでとう!!!バンクーバー・オリンピック代表選出おめでとう!!!
やっと真央ちゃんが戻って来ました。嬉しいです。
試練を乗り越えると、人の美しさは何十倍にも大きくなるものなんだなあぁ・・・と改めて思った。
私も、来年ウィーンに行く事が出来なくても、頑張らなければならない。その元気と勇気を真央ちゃんから頂いた。

これから年明けまで連続勤務。今年1年の振り返りは、また後日年末に。