年末年始の連続夜勤で死にかけているのだが。

今日、夜勤明けで「ニューイヤー・オペラコンサート」の録画を観た。
お腹一杯、ごっそ〜さん。
期待出来る歌手とか、素晴らしいと思える歌手がいなかった。
木下美穂子は、発声が変わった???と感じた。
唯一記憶に残った歌手は、ウェーバー「魔弾の射手」を歌ったバス歌手だけ。
日本人はまだまだオペラ発展途上国か。
オペラの役柄を表現するために発声を戦略として歌う事の出来る歌手が、いないと強く感じた。
皆様、自分の声を聞かせるためにオペラアリアを声を張り上げて歌っている、というような印象。
曲の表現を、声の強弱だけにしか感じられない。
超高音域即テクニック、アジリダ即テクニック。
如何にプロと言えど、オペラアリア1場面だけ歌うのは、声を立派に張り上げてそれらしく歌う事は出来たように見せかけられても、オペラ全幕通して一つの役の表現を分析・解釈し身につけレパートリーとしない事には、ニューイヤー・オペラコンサートも、ただの「お祭り騒ぎ」だけ。
つまらない。
録画は、もう見なくていい。


兎に角、連続夜勤の超蓄積疲労で暫く歌えない。
でも、勉強はしなければならない、勉強したくてたまらない。
だから、昨日ヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」でチェックして目を付けたアリアを全て楽譜をコピーして、今日の夜勤のヒマな時間に早速楽譜作りをしていた(爆)
主に、まだ勉強していないクレオパトラのアリア、シーザー、トロメーオ、コルネーリアのアリアを12曲程。
そして、帰宅してひと眠りしてから、楽譜を観ながらDVD鑑賞。
やはり、楽譜を観ながらオペラを観ると、非常に新たな発見が沢山沢山あるある!!!
まず、ヘンデルのオペラアリアは殆どがダ・カーポアリアなのだが、このダ・カーポ形式も歌手によってその扱い方や歌い方が非常に異なるし、それがまた歌手の個性を非常に強力に示している事に気付く。

まず、シーザー役のサラ・コノリー。ダ・カーポの1stは、楽譜通りほぼ完璧(核爆)ほぼ余計な装飾は付けずに私の持っているベーレンライター版の楽譜通りに歌っている。これにはブッたまげた。
ダ・カーポの2ndは、勿論御約束のアレンジが非常に技巧的で尚且つメゾ・ソプラノでありながら男性役としても不自然さが無い。
サラ・コノリーはダ・カーポの1stを楽譜通りに歌う事で、展開部とダ・カーポの2ndに大きな説得力を与えているのだと、非常に強く実感した。非常に丁寧な歌唱。ヘンデルの作品を再現芸術として大切に造り上げている素晴らしい歌手、サラ・コノリー。
正に、鳥肌が立った。
特に「Va tacito e nascosto」は余裕タップリ。
流石、グラインドボーン合唱団からの、叩き上げは違う。私もこのシーザーのアリアは勉強してみたいと非常に強く考えた。
それに比較すると、ダ・カーポの1stから装飾バリバリのクリストフ・デュモーは、若い(激爆)と感じた。でも、それでもやはり音符一つ一つ非常に丁寧に発声を心掛けており、どのような発声で歌う事がデュモー自身のトロメーオに「聴こえる」のかを十ニ分に熟知している。
ダニエル・ド・ニースは多少粗というか雑さが目立つが、サラ・コノリーのようなベテランと比較しても仕方が無いとは言え、クレオパトラ最初のアリア「Non disperar」では、アジリダの音が幾つか飛んでしまっている。明らかに発声への取り組みと丁寧さや慎重さに欠ける。

でも、それにしてもやはりサラ・コノリーは凄い。

で、このグラインドボーンのヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のDVDを購入したのは去年のヘンデルのリサイタル前だったのに、今日初めて気が付いた事があった。

特典映像。プロダクション・ドキュメンタリー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、阿呆(自爆)
指揮者のウィリアム・クリスティ、サラ・コノリー、ダニエル・ド・ニース、アンゲリカ・キルヒシュラーガー、演出のデヴィッド・マクヴィガーのインタビュー映像の存在に、今日初めて気が付いた。
とっても感動した事が幾つかあった。
指揮者のウィリアム・クリスティが、シーザー役のサラ・コノリーと、トロメーオ役のクリストフ・デュモーを非常に高く評価していた事。
指揮者ウィリアム・クリスティがヘンデルのオペラを「ヴァイオリンの声部と、舞台上の歌、バス声部がある、20曲に及ぶ壮大なトリオ・ソナタ集」であると位置付けていた事は、私自身のヘンデルのオペラへの見方を大きく変えた事。オーケストラには歌手と同じくらい歌う事を望み、歌手には時に楽器で弾くように歌う事を望む。私の声は、楽器に例えたら一体何の楽器だろうか・・・???ヴィオラかチェロかな???(笑)と考えさせられた。

演出家のデヴィッド・マクヴィカーは、ヘンデルのオペラ・アリアのダ・カーポ形式に関して実に興味深い思索を展開している。
ダ・カーポ形式ではまず感情や考えを表して、次に別の考えが提示され、それから最初の考えに対するより深い思索へと続く。これは実際の会話での思考方法と同じで、何かを主張しようと思う時にはダ・カーポ形式となる、という事。
レチタティーヴォ・セッコに関しては、取り組む事の困難さは感じるようだが、その瞬間の感情の深さを理解するために意欲と信念を持って取り組むならヘンデルのオペラが決して静的なものでは無く、難解なものでも無い事が解るだろう、と述べている。

また、シーザー役のサラ・コノリーは、ヘンデルのオペラの調性を原調で演奏する事について強調している。シーザーを移調して歌うと、クレオパトラやセストとの対話で音域が同じになってしまう事となり、それはヘンデルの意図に反するという事を主張している。
これは私がリサイタル前に読んだ本「ヘンデル・オペラセリアの世界」に書かれていた事と全く同じである。

最後に、指揮者ウィリアム・クリスティが、ヘンデルは「エジプトのジュリアス・シーザー」という作品が好きで大変に力を注いだ事は草稿や作品の書き直しを見れば分かる、あらゆる音楽作品の中でも最も精巧な作品である、と述べている事に涙が流れた。
私のような者でも、ヘンデルがこれ程に愛した作品からレパートリーを得て勉強出来る事が、何よりも幸福な事であると心から感じる事が出来た。
どんなにか夜勤で疲れようとも、歌えない時があっても、決して諦めないで頑張ってクレオパトラを全て勉強して行く事を、願い祈らずにはいられなかった。


嗚呼、ニューイヤー・オペラコンサートなんか見てないで、もっともっとDVDのメニュー画面をきちんと見れば良かったなああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・・(溜息)

明日も、夜勤(滝涙)