ブログを書く気にもならん程、忙殺された12日間だった。


まず、10日前の夜勤で相談を受けた。
病棟の後輩看護師が僅か20歳代前半で、

「私、絶対に産みます!!!」

と、夜勤で相談を受けた直後に、高らかにシングルマザー宣言をされた。
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それからが大変だった。
まだ週数が浅いので、力仕事をなるべくさせないようにフォロー、両親に報告するように助言と、病棟課長への報告のタイミングと、夜間の救急診療のフォロー体制。友人の助産師に早速メールで連絡した。
兎に角、無事出産出来るまで絶対にフォローしなければならない。人間一人の命に係る問題である。
この件に関して、約1週間拘束状態だった。

その間に、月1回の日勤で、リーダー業務と、委員会と、後輩指導と、新人歓迎会を、1日でこなす。
先輩鬼看護師が不在だと、職場が弛む。只管、檄を飛ばす。
次の日の2件の手術の全準備を行わなければならなく、約1ヵ月振りの日勤業務で勘を取り戻すのに、必死。
新年度の医療事故安全対策委員会で、看護部長と看護課長のバトルにウンザリする。
そして、久々の日勤で昼夜逆転傾向の疲労困憊の中新人歓迎会で、上司や後輩や医師のフォローに走る。
整形外科の手術を中心に受け持つ病棟なので、私は後輩看護師だけでなく、リハビリテーション科の理学療法士や作業療法士にも、恐れられている。

私の場合は殊更、ナメられるよりは、恐れられている方が、適正である。


この間、ネットでとある映画を見つけた。
「Copiying Beethoven」
邦題「敬愛なるベートーベン」
2006年に全国公開された映画らしい。全く知らなかった。
以前、演奏会に来てくれた看護師の友人が私の歌を聴いて、ベートーベンに関する映画を観た事を思い出した事を話して貰った事がある。友人は「資質」という事を強調して話していた。それからベートーヴェンに関する映画を探し続けていた。
最もこの「敬愛するベートーベン」が友人の観た映画かどうかは、結局、今では確認の余地は無いのだが。

この映画に登場する写譜師の女性アンナ・ホルツは実在しない人物だという事だが、映画としては非常に素晴らしい作品であると本当に感動した。
まず、ベートーベンという人物像。
モーツァルト「アマデウス」並みに、ベートーベンという人物に関してほぼ装飾無く肉薄しているのではないか、と思わせる程の迫力ある表現。主演のエド・ハリスも素晴らしい演技でベートーベンを熱演している。
ベートーベン晩年の時期で、交響曲第9「合唱付き」の初演と、弦楽四重奏「大フーガ」誕生に深く関わる映画である。
写譜工房のシュレンマーが「Beast!」と恐れる程の激しいベートーベンの気性と、甥のカールを盲目的に溺愛し、病魔、特に難聴に苦しみ肺水腫やリュウマチや痛風を抱えながらも作曲に埋没しているベートーベン。
勿論、架空の女性写譜師アンナ・ホルツにも決して甘い顔や言動は見せない。
しかし、アンナ・ホルツの写譜師や作曲家としての才能を認識した途端に、自らの過ちを認め跪き、女性や人間としてでは無く、飽くまでも音楽家として、束縛し傾倒して行くベートーベンとアンナ・ホルツ。
飽くまでもその集約された人生と物語が「音楽」を中心として決してブレる事が無いという点が、私にとって「アマデウス」よりも、ベートーベンとこの映画をより遥かに身近にリアルに感じさせる。

特に私が非常に気に入っている、ベートーベンの台詞。
「私に謝るだと???謝るくらいなら挑みかかれ!!!卑屈な人間は嫌いだ!!!!!」
「神と私は完璧に理解しあえる。同じ穴の熊だ。唸って引っ掻き合う。背中合わせで寝れば誰も近付かん」
「孤独が私の宗教だ」
「音楽は空気の振動だが、神の息吹だ。魂に語りかける。神の言葉だ。音楽家は最も神に近い存在だ。神の声を聴く。意志を読み取る。神を讃える子供達を生み出す。それが音楽家だ。でなければ音楽家は必要無い」
「私は音の無い世界に生きてる訳じゃ無い。頭には音が満ちている。湧き上がる音を書くのが唯一の安らぎだ。その代償として、神は私の聴覚を奪ってしまった。だが聴く喜びを禁じられても私の音楽こそ神の声だ」
「分からなければ美意識を鍛えろ。醜くても内蔵を抉るような音楽だ。腹の底から神に近付くのだ。ここに神が宿る。頭や心じゃない。腹の底に神の存在を感じる。腸はとぐろを巻いて天に向かい頭脳より冴えわたる。糞に塗れるから天国に行ける」
「私は新しい言葉で神を語りたい」
「終らん。流れるのだ。始めも終わりも考えるな。君の恋人の作る橋と違って曲は生きものだ。まるで、形を変える雲や潮の満ち引きと同じだ」
「一つ死んで、次が生まれる」
「無音が鍵だ。音符と音符の闇の沈黙だよ。沈黙が深まると、魂が歌い出す」
「芸術家は自分を信じる。君の橋は陸地を繋ぐだけだ。私の橋は人の魂を繋ぐ。神は私に大声で《創れ》と叫ばれる。だから難聴に。君も視力を失えば人を批判する権利を持てる」
「どう感じる?悲しみか、怒りか、憎しみか。私を殺したければ、作り直せ!」
「ベートーベンは一人でいい」
「このまま去っても私から解放されんぞ」
「この作品(大フーガ)が私の橋だ。未来の音楽への架け橋だ。その橋を渡れば、君は解放される」

ベートーベンは本当に病人だったのだと、思う。
病んでいる人間だからこそ、体も心も真に病んでいる人間だからこそ、吐露出来る言葉があると思う。病んでいる人間でなければ言えない言葉があると思う。それは、病というものが人間の本質の一部であるからこそ、より真実に近いという現実が存在するのが「人生」なのだと思う。
それは、私は自分自身の職業上、より誰よりも強く感じている事の一つであると、自覚しなければならない使命を持っているのだと、認識している。
「美しさ」とは、「綺麗さ」では無いのだと。
「美しさ」と「綺麗さ」とは、決して同義語とは言えないのではないのか、と。
歴史に残る美とは、綺麗さだけでは済まされないのだと。
しかし、過去の歴史の現場を観る術を持たない人間にとって、残された宝の一つが「音楽」であるのだと、この映画を観て本当に心から、感謝した。
私自身が、ベートーベンの音楽に関わる事の出来る人間である事が出来て、何よりも神に感謝している。

この映画の評に関しては、指揮者の佐渡裕氏が、
「この映画を観て、益々この曲が恋しくなった。ベートーベンを驚かせるような「第9」の演奏!いつかやってみたい。それが僕の目指すところ」
と書かれていた。
ベートーベンの自宅アパートの隣に住む老婆が、アンナ・ホルツに、何故引っ越さないのかと尋ねられて、
「引っ越す???ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベンの隣に住んで、誰よりも早く作品を聴けるのよ。初演前に聴けばウィーン中が嫉妬するわ。交響曲第7番の時から住んでいるの。名曲だわ。じきに新しい交響曲が誕生ね」
と言って、ベートーベン交響曲第7番の一部を口ずさむシーンがある。
私が、去年ウィーンに行った時にウィーンの街中を散歩した時に、ベートーベンの像が多く、しかも最もカッコ良かったのを不思議に思ったのを覚えている。ベートーベンは、癇癪持ちの変人で難聴になってからは近隣の住人と頻繁にトラブルを起こし、何百回もの引っ越しを繰り返したという逸話もある。
しかし、そのようなベートーベンが如何にウィーン市民に愛されていたのか、実際にウィーンに行き、そしてこの映画を観て本当に身に染みてようやく理解する事が出来た。
交響曲第9「合唱付き」の初演のシーンは、何度観ても涙が流れる。
もし、タイムスリップ出来るならば、その場に居たかったと心から思えるような映像。
いや、その歴史的場面に立つことが出来ない事が解っているからこそ、このような素晴らしい映画に謙虚に感動を覚える。


この映画を観て、去年ウィーンでN先生にレッスンを受けた、ベートーベン「Ich liebe dich」の事を思い出した。
私の声は、何度も言うが、決して「美声」では無い。しかしウィーンのN先生は私のベートーベン「Ich liebe dich」を聴いて、
「Schön」
と、一言言って下さった。
それだけで、もう十分なのだとも、思う。
私はこの映画「Copiying Beethoven」の、実在しない写譜師アンナ・ホルツと同じような存在である。
私はベートーベンの歌を歌うが、コピイストである。
何故なら、オリジナルは、飽くまでも「作曲家自身」であるからである。
でも、その「コピーする」という行為を自分自身の声で行うという機会を与えられた事を、心より光栄に思う。


今日は久しぶりの2連休。
ここの所、休むヒマも殆ど無くて、連続夜勤の間の休日も殆ど練習にならなかった。
夜勤明けで、弁護士とのやり取りや、親父の入院費用や借金の管理や、寝ないで都内まで楽譜の購入に出掛ける事も多かった。
お陰で、歯が痛い。最近、珍しく真面目に歯医者に通っている。
今日は、オフ日にした。
去年のように、喉を痛めて、ヤンクミに迷惑は掛けたくない。


最後の「家柄」に関しては、まだ問題の真っ最中なので、何れ改めて、後日。