先日、日本歌曲の演奏会にお招き頂いて、聴きに行って来た。
夜勤の手術患者さんが約2時間の手術で殆ど痛みも無く、非常に落ち着いた夜勤だったので助かった(爆)

私は日本歌曲を習った事が無い。理由としては、今迄レッスンを受けて来た先生方々から日本歌曲勉強の許可を貰っていなかった事、イタリア歌曲・イタリアオペラとドイツ歌曲・ドイツオペラだけで手一杯である事、日本人が日本歌曲を歌ってきちんとした「日本語」に聴こえない事ほど恥ずかしいものは無いと自分自身考えているのでどうしても手が出無い事、等々。
要するに、私にとって日本歌曲とは非常に難しいジャンルの一つである。

但し、先日の日本歌曲の演奏会を聴いて、多くの発見があったことを非常に喜んでいる。
まず、今迄の私自身だったら聴いた事の無い、まして現代曲の日本歌曲だったら、飽きてしまって演奏会終了まで集中して聴いている事が出来なかったであろう事。今回は、演奏会にお招き頂いたという理由もあるのだが、自分自身、聴き手としての幅も広がって来たのかな、とちょっと嬉しくなった。
そして、1曲も知っている曲が無かった事により、全くの先入観無しで聴く事が出来た。
これは、音楽を聴く側としては非常に楽しい事であった。

全部で8人の歌手の方々が歌われた。
夜勤明けで休養時間が少なかったが相当集中して聴いた。
まず強く感じた事が、やはり日本語がちゃんと聴き取れるかどうか、という点。これに関しては大きな差が付いていたいたように考える。
無論、発声の問題とも大部分リンクしている問題である。1名ソプラノ歌手が、日本歌曲2曲丸々オペラアリアのような大声量で歌っていた。勿論そのような日本歌曲なのかも知れないのだが、聴いている方は非常に疲れたし、飽きてくる。
発声に力が入り過ぎると、言語が疎かになって来る傾向性は否定できないというのが、客観的に感じた事である。この事に関しては、日本歌曲だけでなくイタリア歌曲やドイツ歌曲に関しても自分自身に当てはまる事なので、聴いていて相当に自戒の念を抱いた。
技術的には、歌曲の大きなポイントとしては、緩急を駆使して詩や言葉を丁寧に「語る」事が歌曲としては最低限度の御約束なのだと、観客席に座って聴いていて改めて思い知らされた。
努めて端正な歌唱を心掛ける事、詩の内容や情景の解釈や分析に対する思い入れだけでなく、イマジネーションの豊かさが要求され、且つ日本語として聴き手に理解されなければいけないのだという事を強く認識させられた。

日本歌曲というと、どうしても綺麗な日本人的軽めのソプラノで儚げに、などという相当に阿呆な先入観を持ってしまっていたのだが、それが非常に恥ずかしい間違いであった事を、思い知らされた。
最後に歌ったベテランのソプラノ歌手の方は、日本人としては非常に豊かな声であり、決して声を出すのでは無く響きの上に端正な日本語を乗せた、非常に美しい歌唱であった事が印象に残っている。
思わず、私にも日本歌曲歌えるかなあぁ・・・・・、と思わせてくれた歌唱であった(苦笑)

基本的に、私には日本歌曲は向かないかも知れない、とも感じた。
楽譜通りの譜読みを厳密に行えるか、という点は非常に難しい点である。無論、日本歌曲専門の先生にレッスンを受けなければならないだろうが、日本歌曲の勉強を始めるのであれば、相当にイタリア歌曲・イタリアオペラやドイツ歌曲・ドイツオペラとは切り離して切り替える覚悟が必要であろう。
日本歌曲、イタリア歌曲、ドイツ歌曲、全て発声や歌唱法自体が違う。当然の事である。それを前提にして勉強し歌わなければならないのは至極当然の事であるが、発声や歌唱の切り替えに相当な年月や時間を要するだろうとも考えた。
発声、言語、表現、その国の歴史などを十二分に踏まえた作曲家や国民性の違いが顕著であるため、全く違う勉強を行わなければならないのが、当然である。
今以上に、複数の先生にレッスンを受けるのも、明らかである。

私は現在、日本とウィーンで合計6人の先生に師事している。
良くアマチュアでは、複数の先生に師事すると矛盾した指摘を受け混乱の原因になるとか、明確な言語での指導では無く抽象的且つ感性的な指摘で理解するのが困難、という意見が存在する。
しかし、それは本当に適切な認識であろうか??????????
複数のジャンルの曲を歌うのであれば、その違いを最も明確に認識・自覚した勉強方法が必要不可欠である。専門性という事を自己のレベルまで乏める事は、謙虚さを欠いた認識不足による尊大で不遜な単なる「勘違い」であろう。
並行してレッスンを受けている先生方の指摘を自己が熟慮していない事、何よりも複数の先生から指摘された内容を自分の都合の良い解釈で歪曲した結果、それを「矛盾」という誤認にすり替えている可能性は大きい。
複数のジャンルの曲の専門性を注意深く丁寧に分析・理解・認識しながら、多くの指導内容に適応して行こうと言う意欲と努力と謙虚さがなければ、勉強する資格は無いと私は考える。
自分の好きな曲を好きなように適当に歌っていれば良いだけの事である。
自分自身の声帯や肉体はレッスンを受けてる先生とは全く別個の個体なのであるから、発声や歌唱法の指導が抽象的に感じられるのは、至極当然の事である。
「あなたの体のこの筋肉とこの骨をこう動かしたら、このような声が出ますよ」
なんて指導、訊いた事が無い(呆)

重要な事は、自分自身と先生とは飽くまでも別個の個体という認識から、自分自身の声や歌を通して先生に指導された内容をどこまでも主体的に把握し、自分自身の声や歌を先生から受けた指導に最も近づくような鍛錬と練習を意欲的に継続する事である。
複数または多くの先生から並行し継続的にレッスンを受けて勉強するという「適応能力」とは、自らの努力でしか獲得される事は無いが、真摯に謙虚に探究を継続して行く事で十分に獲得可能な「技術的能力」であるという事が言えると私は考えている。

最後に、日本歌曲に招いて下さった方はとても美しい声をされていた。
ヤンクミが以前私に話してくれた事がある。

「フランス語で、綺麗と美しいでは言葉が違うんですよ。フランス語で綺麗は《joli》、美しいは《beau》というんだけど、あなたの声は《beau》の方が大きいと思うの」

前のブログで、ベートーベンの映画に関しても書いたが、先日の日本歌曲の演奏会を聴きに行ってから益々この「綺麗」と「美しい」の認識の違いについて思いを強く持つに至った。
日本では多分に混同されてしまっている「綺麗」と「美しい」という概念や感性を、もう一度一から磨き直さなければならないという事を非常に危機感を持って認識させられた。
ちなみに、私を日本歌曲の演奏会に招いて下さった方の歌声は、私にとっては《beau》として心に響いた事がとても印象的で、感動的だった。
やっぱり、生演奏はいいなあぁ・・・・・と思った。

明日は、ヤンクミ一座のゲネプロであ〜る♪