ここで私自身の《死》に関する認識を書いておく。私の尊敬する哲学者で三木清という人がいる。三木清が「人生論ノート」という論文に書いている事を少し紹介したい。
三木清は「人生論ノート」〔死について〕で、
『ゲーテが定義したように、浪漫主義というのは一切の病的なものの事であり、古典主義というのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるということもできるであろう』
と述べている。私はこの部分を読んだ時に真っ先に考えた事が、シューベルト歌曲【魔王】は浪漫的であり、【トゥーレの王】は古典的であるという事である。少なくともそう強く感じた。これはシューベルト歌曲を歌ったり勉強したりする上で非常に興味深い。
それから三木清は「人生論ノート」〔幸福について〕で実にシュールに表現しているのが、
『死そのものにはタイプがない。死のタイプを考えるのは死をなお生から考えるからである』
と述べている事だ。シューベルトが様々な詩人の詩に実に多様な曲をつけている事は、シューベルト自身がかなり強く生から《死》を意識していた可能性も有り得るという仮説が考えられる。シューベルトの死生観が垣間見える気がする。続きを読む
三木清は「人生論ノート」〔死について〕で、
『ゲーテが定義したように、浪漫主義というのは一切の病的なものの事であり、古典主義というのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるということもできるであろう』
と述べている。私はこの部分を読んだ時に真っ先に考えた事が、シューベルト歌曲【魔王】は浪漫的であり、【トゥーレの王】は古典的であるという事である。少なくともそう強く感じた。これはシューベルト歌曲を歌ったり勉強したりする上で非常に興味深い。
それから三木清は「人生論ノート」〔幸福について〕で実にシュールに表現しているのが、
『死そのものにはタイプがない。死のタイプを考えるのは死をなお生から考えるからである』
と述べている事だ。シューベルトが様々な詩人の詩に実に多様な曲をつけている事は、シューベルト自身がかなり強く生から《死》を意識していた可能性も有り得るという仮説が考えられる。シューベルトの死生観が垣間見える気がする。続きを読む
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