晴れの日はANDANTE

私のライフワークである歌曲やオペラ、日々の練習やレッスンについて、気ままに綴っていきます。

2009年09月

ウィーンからのメール

一昨日、久しぶりにウィーンのM先生からメールを頂いた。M先生は今年の3月私が初めてウィーンのレッスンに行った時の各先生方のコーディネイト&通訳をして下さったメゾ・ソプラノの先生。主にブラームスを御得意にしていらっしゃる。

先日、ドイツの偉大なヘルデン・ソプラノ歌手ヒルデガルド・ベーレンスが日本で急逝された事で、私も久しぶりにM先生にメールをお送りしたのだが、暫く御返事が返ってこなかった。良くヨーロッパ中をお仕事で旅行されていらっしゃるので、御忙しいのかお疲れなのかと思ってはいたのだが、御返事が無いと来年自分はまたウィーンに行ってレッスンを受けられるのかどうか、多少不安に思っていたのだが、一昨日ようやくM先生から御返事を頂く事が出来て少しホッとした(笑)
まずベーレンス急逝の話題から。M先生も非常に驚かれていた御様子だった。ウィーンでも大変大きな記事になったという。特に日本人としては、ベーレンスがドイツでは無く日本で亡くなった事は非常にショッキングだったらしい。本来であれば、故郷の地で眠る事が出来たはずであろうが、日本での草津国際音楽アカデミーのマスタークラスの講師として来日中に亡くなられた。日本とは御縁の深い偉大なソプラノ歌手であったのだろうが、故郷の地で休まれるが最善だったと誰もがそう思う事だろう。そう考えると、日本のオペラ界はもうちょっと多少なりとも商業主義ではなく伝統的なクラシック音楽やオペラの浸透に文化的レベルで尽力するべきなのに、と苦い思いを覚える。

それから、今年私が12月に予定しているヘンデル・オペラアリアのリサイタルについて。M先生から、
「ヘンデルの作品はどれも美しい音楽で素敵ですね。ウィーンにいらした折にお聞かせくださいませ。楽しみにしています。」
と、書いてあった!!!(超滝汗)これは、今まで以上にもっともっと気合を入れて力を込めて練習しなきゃあああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!!!!多分、もうN先生やB先生にも私のヘンデル・リサイタルの話題は報告済みだろうからなあぁ(溜息)一番恐ろしい事は、予告無しでいきなり「ヘンデルを歌ってみてください♪」と言われる事である。これは、全く想定外の話しとはあながち括り切れないのが恐怖だ(爆死)

それから、いつもM先生が心配してくださっている事が毎回同じくメールに認められていた。
「あなたの熱心さには頭が下がります。でもでもどうぞ御自愛ください。心配です。」
こんな言葉は、歌の先生にしか言って貰った事が無い(超苦笑)ミルヒー先生、オクレール先生、谷岡先生、ハリセン先生、M先生。いつも私に音楽と歌を教え導いてくださっている方々だけがこのように私の「苛酷で無理な生活」を心配してくださるのみ、である。でも、本当にいつも誰にも心配すらして貰えない位、丈夫とゆ〜か不死身で頑強に見えるので仕方がない(爆死)未だ、付き合っていた男にもそこまで心配して貰った事は無い。一番最後に別れた去年の11月まで付きあっていた男は、私が作る食事は随分美味そうに食べていたが、幾ら私が疲労困憊でも代わりに私に食事を私に作ってくれた事は無かったな〜〜〜・・・(不愉快)な〜んか、も〜ちっとくらい私を少しくらいは心配してくれる男に出逢いたいものだわ(不満)でも今は、臆病で中途半端で卑怯な偽善者の男の相手をしているヒマは米粒ほども無いから、もうお腹一杯ごっそ〜さん。日本の男って結構精神的・文化的レベルが超低俗かもねえぇ〜(核爆)次はウィーンで見つけてこようかな〜♪

一昨日も昨日もモーツァルト「ドン・ジョバンニ」の映像を見続けている。今回の一連のモーツァルトのレッスン、スザンナやパミーナやドンナ・エルヴィーラのレッスンで一つだけ確実にはっきり理解認識出来た事がある。私は決してモーツァルトを歌う事が「苦手」ではなかったのだ、という事。モーツァルトに関しては、自分自身歌う事が苦手で嫌いな「オペラの役」が存在するだけで、私自身がモーツァルトの音楽に適性が無いという解釈は間違いであったという事が確信出来た。これは、本当に素晴らしい発見で嬉しい事である。これに気付かせてくださった某オペラファンには本当に非常に心底感謝申し上げている次第である(苦笑)今までは、私のような容姿が綺麗でも無い声が美しくも無い日本人にしては野太いソプラノではモーツァルトなんか歌えないと思っていた私に、美しいコロラトゥーラやレジェロのソプラノしか好まず認めない人間は私の「敵」にしか見えなかったが、ただ単に私がスザンナやツェルリーナなど日本人の慣例的で進歩も学習能力も賢明さも存在しない、自分の好みと偏見と自意識過剰の歪んだ美意識に振り回されていたという事を、嫌という程思い知らされて頂く事が出来た。私は、そのように歪んだ過剰なえげつない美意識のためにモーツァルトが不得意であると勘違いし続けて来たのだが、谷岡先生の仰る通りモーツァルトだってパミーナやドンナ・エルヴィーラはきちんとウィーンで認められるべき役柄であり自分自身非常に丁寧且つ余裕を持って歌う事が出来るモーツァルトの役柄なり曲が存在する事をこの逆境で良く良く認識認識する事が出来た。しかし、反面教師の存在はやはり非常に重要で、美人でスレンダーで細くて軽くて美しいソプラノしか認めないような偏狭でマニアックで独断的なクラシック・オペラファンがいたからこそ、私自身ウィーンにレッスンに行ってまで勉強して絶対に自分がきちんと歌える曲を1曲でも多く増やしたいという意地が持てたと思う。偏狭な美人ソプラノマニアのクラシック音楽ファンには、私自身が歌うモーツァルトなんか絶対に聴かせるつもりは毛頭皆無だが、「不得意」と「嫌い」の区別を認識するに至ったプロセスには仕方がないが無くてはならなかったのだと呆れ笑い感謝をしている所だ。

来年、またウィーンにレッスンに行ける事だけを本当に幸福に思う。

誰にも良い評価などして戴かなくても結構。私が今レッスンを受けている先生方が認めて下されば別に他はいらない。大体にして、そこいら辺の半端なオペラファン紛いに私の良さなんざ御理解頂く必要も無し。私はプロでは無いので、聴き手に気に入られ媚を売るような歌唱もする必要も無し。私の歌を心から聴きたいと心から思ってくださる人なら、唯一人の前で喜んで歌いたい。後は、私の望む物では無い。もともと演奏会やリサイタルだって、先生方から「100回のレッスンより1回の本番」と指摘され続けているから、自腹を切って疲労困憊の上無理をしながら演奏会やリサイタルをこなしているのだ。自分の歌唱技術の進歩向上目的でも無かったら、だ〜れがこんなに無理して自分に鞭打って演奏会やリサイタルなんざやるもんかい!!!

一度でいいから、次に生まれて来た時でいいから、ちょっとくらいは「美しい声ですね」って言われてみたいなあぁ・・・・・(溜息)
う〜ん、でも、やっぱり次生まれて来た時は、ワーグナーを歌えるヘルデン・ソプラノの方がいい!!!(爆)

ところで、来月号の「Kiss]で「のだめカンタービレ」は最終回なのかなあぁ???

zzz・・・。おやすみなさ〜い♪

ハマり役5

今日は久々の谷岡先生のレッスン。7月に千葉でヤンクミとの演奏会の時に風邪で喉を痛めてからレッスンを受けていなかったので約3ヶ月振り。まず7月の千葉の演奏会の報告。喉が潰れるかと思ったが何とか最後まで歌えた事、アンケートでシューベルト「野薔薇」「菩提樹」のような有名な曲だけでなく「トゥーレの王」「こびと」など日本では殆ど知られていない曲を選んで下さった方々もいた事を報告した。今は主にミルヒー先生やオクレール先生とのヘンデルのリサイタルのレッスンやピアノ合わせをしながら、来年ウィーンのレッスンに持って行きたいモーツァルトのアリアやシューベルト歌曲の楽譜作りを行っている事、今月は月の半分が夜勤でかなり死にそうな事など(笑)今日は谷岡先生もお時間に余裕があったらしくお茶しながら30分くらい話を聴いて下さった。

そしてレッスン開始。まずモーツァルト「フィガロの結婚」のスザンナのアリア2曲。「Un moto di gioja」「Venite,inginocchiatevi」から。一通り通して歌い終わってから谷岡先生からかなり指摘された。
『あなたにしては珍しく暴れてるカンジ。レガートに歌えていない。ポジションが全体的に低い、特に下降音型でポジションが下がりがち。2曲とも声が音の一つ一つにきちんと当たっていないし、早いテンポでも歌詞はきちんとついて来て歌えているけどメロディーの流れが止まって聞こえるの』
・・・・・。確かに自分で歌っていてもマジで超苦しい。体の疲労の問題だけでは無い。今日はレッスンは午後からだったので1時間スタジオで発声練習もして来た。曲の音程の高低差に振り回されている感じが自分でも良く判る。谷岡先生は、『あなた、スザンナ好きじゃないでしょう!!』
・・・・・。確かに(超苦笑)図星。好きじゃないとゆ〜よりは、嫌いです(爆)キャラクターも違うし、曲の感じも自分自身歌っていてもレガートに歌えるポイントを非常に把握しにくい曲が多い。役柄としても理解しづらい部分が多い。しかし、これは谷岡先生にもお話した事なのだが、幾ら嫌いな役でもスザンナをすっ飛ばしてパミーナやドンナ・エルヴィーラを勉強するのはものの順序が違うというものだ。それに、嫌いだからと言って勉強しなくても良い理由にはならない。谷岡先生は、
『あなたはレガートに歌える曲の方が得意なんだけど、このスザンナのように音型の細かい腹筋をかなり使うような細かいポジションで確実に声を音に当てて行く曲はまだまだ苦手だから、これからはもっとメカニカルに声を音に確実に当てられるようなテクニックを勉強して行く事が今後の課題。今歌ったようなスザンナのアリアのような曲でもきちんと歌えるようにならないといけないし、そうすれば他の曲ももっと楽に歌えるようになるはずだから』
と言われた。ただ私自身としては今勉強しているスザンナは演奏会本番にすぐに乗せられるようなレベルにするためでは無く、飽くまでも来年ウィーンのレッスンにパミーナやドンナ・エルヴィーラの持って行くための前段階として歌っている訳で、もしもスザンナを演奏会で歌う事を考えるならば、もっとかなり先の事として考えている事を話した。谷岡先生も少し複雑な表情をされていたが、取り敢えず私としては今後もスザンナの勉強は続けて行くつもりである事を話したら納得されていた。

次はこれも久しぶりのモーツァルト「魔笛」パミーナのアリア。これは前回は譜読みも不十分で音取りをようやく済ませた段階で歌ったので、今回はきちんと譜読みをして行った。但し谷岡先生から前回のレッスンで、
「このパミーナのアリアは余り歌い込みし過ぎないように、飽くまでウィーンで習って来た発声で、でもいつでも歌えるようにしておいてください」
とかなり難しい注文(笑)だったので、自分でも1回のスタジオ練習でパミーナのアリアだけは軽くおさらい程度にしていた。高音域のパッセージは確実に歌えるようになった事、中高音域はなるべくピアニッシモで息の流れに留意しながら歌う事が出来るようになった事もあり、通して歌った後で谷岡先生から、
「殆ど問題無いわね」
との評価を頂いた(驚)日本のパミーナ・ファンが聞いたら激怒しそうな私のパミーナ(爆)パミーナに関しては、録音も映像も一切観ないし聴かない事に決めた。マティスもポップもボニーも、私が聴いたり観たりしても全く参考にも勉強にもならないし、逆に余計な事や勘違いな事を真似しかねないと自分自身判断した。だって声質が全然違うんだから。この事に関しては谷岡先生も納得されている。だからマティスやポップやボニーの録音や映像を観たり聴いたりするくらいなら、楽譜だけと向き合いウィーンのB先生曰く「自分自身の感性と解釈」でパミーナのアリアを勉強した方が余程私自身のパミーナを作り上げて行く事が出来るだろうと考えた。どうやら今日の谷岡先生の反応を見る限りでは、その選択は間違いではなかったようだ。音域も高低差がかなり激しく決して歌い易いアリアでは無いのだが、私自身スザンナのアリアを歌う何十分の一も苦に思わないで歌っているのが非常に不思議なのだが、谷岡先生も、
「パミーナ、歌うの楽でしょう。だって、楽そうに歌ってるように聴こえるもの(笑)」
と一言(爆)でも、私がパミーナを開き直ってここまで何とか歌えるようになるまでに、相当傷ついたし悩んだし苦しんだし混乱もしたし、第一私のパミーナを良いと言ってくれるのは日本では谷岡先生しかいないですよ〜という事を話したら谷岡先生は笑っていた。谷岡先生から、
「敢えて言うなら、フレーズの終わりの音が声の流れが止まってしまいがちだから、フレーズの歌い終わりの処理をもっと息や声が流れるように工夫が必要。今度からはそこの所に気をつけて練習してみて」
と指摘された。
私が、一度ハリセン先生にもパミーナをレッスンで聴いて頂いた方が良いのでは?という事を谷岡先生にお話しした。ハリセン先生はタミーノを得意とされているから。でも谷岡先生は少し考えた表情で、
「う〜ん・・・でもハリセン先生はパミーナに偏見持ってるからね〜。自分が軽めのテノールだからどうしても一緒に共演するパミーナはコロラトゥーラかレジェーロに近いパミーナを基準に評価しちゃうからね。」
・・・・・・・・・・。あはははは(滝汗)確かにそうだわ(爆死)そりゃ〜御尤も。だって私だってもしも私がパミーナ歌うとしてタミーノを共演者として選ぶなら、恐らく日本人ではしっかりした強めで太めのテノールでないとバランス悪いし、もっともっと限定されてしまう(苦笑)まあ、私が舞台でパミーナを歌うなぞ死んでも有り得ない事なので心配は不要だが、選択基準の話としては恐らく谷岡先生の仰る通りだろう。とゆ〜事で、私のパミーナのアリアをハリセン先生に聴いて頂くのはもっと後の事になった。

そして本日のメイン、今日は1曲くらいは谷岡先生にモーツァルト「ドン・ジョバンニ」のドンナ・エルヴィーラのアリアを聴いて頂きたいと意気込んでレッスンに来た(笑)谷岡先生にも、来年ウィーンのN先生のレッスンには是非是非パミーナとドンナ・エルヴィーラのアリアを持って行きたい事を話した。スザンナは不十分極まり無いのだがドンナ・エルヴィーラの勉強と練習もすでに開始しており、ドンナ・エルヴィーラはアリア3曲ともウィーンのN先生のレッスンに持って行く考えでいる事を話した。何しろ、パミーナもドンナ・エルヴィーラもウィーンのN先生からレパートリーとして課題を戴いた役柄だ。もう10年以上も前からドンナ・エルヴィーラをいつかレパートリーにする事を目標としていたので、増してドンナ・エルヴィーラをウィーンでレッスンを受けられるとなれば力も籠るというものだ(猛爆)とゆ〜事でまず1曲目ドンナ・エルヴィーラ登場のアリア「Ah! Chi mi dice mai」を歌った。このドンナ・エルヴィーラももれなく、兎に角モーツァルトのオペラアリアは音域の高低差が非常に極端に動く。時には1オクターブ以上音が飛ぶ事もあるので、本当に歌うのに骨の折れるアリアである。が、しか〜しっっっ!!!ドンナ・エルヴィーラは意地でもウィーンに持って行く覚悟である。早速歌います(のだめ風)で、ドンナ・エルヴィーラ登場のアリアを歌い終わった途端、谷岡先生が、
「歌うの楽でしょ!!!、楽だよね〜、楽そうに聴こえるもの(笑)やっぱりハマり役ってあるんだよね〜・・・。歌い易いでしょう」
・・・・・・・・・・。谷岡先生の仰る通りで(爆死)やっぱり自分で練習した時の印象通り、谷岡先生も私が歌うドンナ・エルヴィーラはかなりハマってると思われたようだ。早速2曲目「Ah!fuggi il traditor!」も歌う事になった。この曲は・・・かなりリズムと休符が不規則で難しく、まだメトロノームを使用しながらのディクション練習の段階だった。谷岡先生のピアノ伴奏に付いて行くのがやっとこさ、みたいなカンジだったのだが最後のアジリダのパッセージは全然楽に歌っているように聴こえたという事だった。そこで谷岡先生から、
「このアリア、リズムや休符がかなり不規則で難しいアリアなんだけど、ドンナ・エルヴィーラが何を言っているのか何を訴えようとしているのかをきちんと理解出来れば、この一見複雑なリズムや休符もそれ程難しくはなくなると思う。言葉の意味やドンナ・エルヴィーラの心情を良く理解しようと努める事が大切」
と指摘戴いた。こういう御指導を戴くと、本当に谷岡先生に出逢えてレッスンを受けている事で自分は幸せ者なんだなあぁ・・・と感動する。今後はドンナ・エルヴィーラの録音や映像を観たり聴いたりする時にも心構えが違って来るというものだ!!!ますます気合が入る(爆)そして、最後のアリア「In quali eccessi,o numi,〜Mi tradi quel l'alma in grata」も歌う事になった(爆死)ちなみにこのアリア、本日は歌う予定ではなかったのでかれこれ1ヵ月以上おさらいしていない(自爆)まあ、細かい譜読みがまだなのでレチタティーヴォは流石にボロボロだったが(号泣)やはりアリアはいつも観ているキャロル・ヴァネスの映像が非常に素晴らしいからだろう、マジで苦しいと思わずに歌えた。流石に連続夜勤の疲労も取りきれていない上に今日はモーツァルトのオペラアリア6曲目(死)それなのに、やっぱり谷岡先生からは、
「楽でしょう!!!だって楽そうに歌ってるもの!!!だって楽そうに聴こえるんだもの!!!一番高い2点hもちゃんと出てるし!!!」
・・・・・・・・・・。言葉が出てきませんでした。要するに谷岡先生が聴いてもウィーンのN先生の眼力は流石で見事にウィーンで指摘された役柄は私のレパートリーとして適役、という事らしい。スザンナとツェルリーナは例外、若しくは私の「嫌い病」だろうけど(苦笑)ドンナ・エルヴィーラのアリア3曲歌い終わって谷岡先生から指摘されたのが、
「ドンナ・エルヴィーラは、後は如何に美しく声の響きを磨いて歌うか、だわね」
と言われた。先日私がブログに書いた通り全く同じ事を谷岡先生に指摘された。要するに、私がドンナ・エルヴィーラを確実にレパートリーにして歌うために必要な事は「美しい声の響き」である。それ以外余り余計な事は要求されない。非常に単純だが、恐らく最も大変かも知れない。スザンナやツェルリーナのように、キャラクターが合わないとか好き嫌いなどの言い訳は一切通用しない、先生方だけでは無く自分自身にも。それは即ち要するに「歌えなければ、演奏会で失敗すればそれは全て自分の怠慢」という事になる。嗚呼、恐ろしい(笑)

ようやく本日のレッスン終了。占めて1時間半(爆)よくもこの疲労困憊の中1時間半モーツァルトのオペラアリア6曲歌ったもんだ。みんな他の人もこんなハードでシビアなレッスンしてるのかな、特にプロとか。

谷岡先生とまた少しお話した。谷岡先生は私の今日のモーツァルトのアリアを聴いて話して下さった。
「私の大学時代の先輩でね、綺麗なコロラトゥーラのソプラノの人がいたんだけど、ウィーンのN先生の所にベッリーニの「夢遊病の女」のアミーナをレッスンに持って行ったらN先生から「NO!」と言われて、かなり落ち込んで混乱した挙句にウィーンのN先生のレッスンに行くのを辞めてしまった人がいるのよ。N先生から見たら、あなたはパミーナで私(谷岡先生)はパパゲーナなのよね。やっぱり、日本とウィーンではレパートリーに対する物差しが全く違う。でも、あなたは、ミルヒー先生にレッスンを受けているヴェルディなんかはN先生のレッスンに持って行こうとしないで、私とのレッスンで勉強した曲だけをウィーンに持って行こうとしているでしょう。それはとても賢い選択だと思うわ。」
との事だった。先日、オクレール先生とヘンデルのリサイタルのピアノ合わせをした時に、オクレール先生からウィーンの事を少し聞かれた。私は、ウィーンの先生からモーツァルトのオペラの役の課題を沢山出されちゃったんですよ〜とか話したのだが、オクレール先生が、
「それって、例えばCome scoglioとか???」
と聞かれた。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルデリージはミルヒー先生とこれからレッスンする予定だが、ウィーンではフィオルデリージは違うみたいですよ〜とオクレール先生に話したら、オクレール先生は少し驚いたらしく、無言だった(苦笑)その話を谷岡先生にしたら、やっぱり黙って頷いていた。
谷岡先生は、
「本当はね、スザンナをきちんと歌えるようになってからドンナ・エルヴィーラを歌う方が私的にはお勧めなの。その方が今よりももっともっと楽にドンナ・エルヴィーラも歌えるようになると思うから。でもね、あなたはスザンナ好きじゃないし、仕事も大変だし喘息もあるし、今スザンナを続けてやったら、ただ苦しい辛い時間が増えるだけになっちゃうと思うのよ。だから、スザンナは置いておいてドンナ・エルヴィーラから始めるのもあなたの場合はアリかなって思う。でも、今後も少しづつでもスザンナは歌い続けた方が良いと思う」
との仰せだった。はい。今集中的にスザンナ勉強しろって言われたら、今度こそ真の「モーツァルト嫌い」になってモーツァルト歌えなくなっちゃうと思う(笑)私自身スザンナの勉強は細々とでも続けるつもりだし、ただ今後演奏会本番に乗せたりウィーンのレッスンに持って行くかどうかについては考えていないけど(爆)

次回のレッスンからは、折角だからドンナ・エルヴィーラを丁寧にレッスンして行きましょうという事になった。
3年前、半ベソかきながらハリセン先生に怒られながらモーツァルトを歌っていたとは思えない展開になって来たなあぁ、あははははは。
最後に、ウィーンのM先生がモーツァルト「ドン・ジョバンニ」のドンナ・アンナのアリアを1曲だけN先生に極秘でレッスンを引き受けて下さった事を話して、ウィーンのB先生が私の声に合わせて選んで送って下さったウィーナーリートの楽譜3曲を谷岡先生にお渡しして帰って来た。

今日はまた、キャロル・ヴァネスのドンナ・エルヴィーラを観てから寝ようっと♪

地獄の23日間

9月、昨日までの23日間で当直7回で夜勤を14日行っていた計算になる。日勤は僅かに3日。そのうち1日は喘息発作を起こして欠勤。
ヘトヘトのボロボロだった。夜勤の合間、自宅でビールの蓋を開けて2〜3口呑んではテレビもパソコンもつけっ放しで気絶、目が覚めて夜勤に行くとゆ〜相当に悲惨な23日間だった。
しかも、その合間にミルヒー先生のヘンデルのレッスン、オクレール先生とのヘンデルのリサイタルの全曲ピアノ初合わせ。
きちんと休めた日は喘息発作を起こして病院で点滴をしていた1日だけ。
酒も殆ど呑めない。呑んでもビールや発泡酒くらいで、日本酒やワインやウイスキーを呑むと動悸と胃痛が起こったくらいだった。
その地獄のよ〜な23日間も昨日でようやく終了。後1日夜勤はあるのだが、流石に今後3〜4日は休日と日勤なので多分大丈夫だろう。

この状況に文句を言っても仕方が無いのは重々承知している。
まず仕事に関してだが、看護師が楽な仕事では無いのは当たり前である。しかも、私は病棟では経験年数的にポジションが上から数えて4番目。病棟課長・病棟主任・先輩看護師はただ一人、と言ってもその先輩看護師も私より経験年数が数年長いだけで同い年。後輩看護師や准看護師や派遣看護師の方が遥かに多い。つまり病棟課長や病棟主任が不在の時は管理業務をこなし、日勤ではほぼ全日リーダー業務をこなしながら後輩の指導に当たり、しかも夜勤が多いとゆ〜超御勘弁願いたいポジションなのだ。それでも声楽の勉強をしているので、会議や委員会や研究会等は全てお断りしている。それでも尚、この激務。
本当に文句を言っても仕方が無い。この職業の収入だからこそ、声楽の勉強にこれだけの時間と金をかけられるのだから。でも、愚痴はこのブログでしか言えない・・・・・(滝涙)

今日は連続夜勤が一段落して超久々の2連休。本来なら1日くらいはゆっくり寝て身体的にも精神的にも疲労を少しでも取れるよう休養するのが良いに決まってるが、私の場合そんな戯言は言っていられない。
何しろ、ヘンデルのリサイタル本番まで既に3ヵ月を切ってしまった。先日のオクレール先生との初ピアノ合わせでは、かなり細かい修正チェックが厳しく入った。特に、細かい装飾音符や、レチタティーヴォのリズムや休符の取り方など、どう歌えば曲の表現に繋がり尚且つ表現が豊かに聴こえるのか、というかなり高度な御指導がオクレール先生からなされた。相当にしんどかったが、高度な要求をされるという事は、その分去年のヴェルディよりも自分自身進歩向上した証、と力無く希望を持つ事にした(超苦笑)
今日は夕方から3時間スタジオ練習。流石に休養が必要で体が全く動かなかったのでスタジオ練習ギリまで爆睡、スタジオに向かう途中の駅前で病棟の後輩看護師に声を掛けられた。私は全く気が付かなかったのだが、後輩看護師は心配そうに私に声を掛けて来た。余程、ボ〜〜〜〜〜ッと漂っていたらしい(激爆)
スタジオに着いて、取り敢えず先日のオクレール先生とのヘンデルの全曲合わせで指摘・修正された箇所をおさらいし直した。9曲あるので全曲通して歌っている時間は無い。オクレール先生から修正するよう御指導頂いた箇所だけをピックアップして丁寧にチェックしながら歌った。特に、レチタティーヴォのリズムや休符、アリアの繰り返し部分で装飾音を付け加える部分など、こ〜ゆ〜トコロがバロックの難しい所以なんだなあぁ・・・と改めて思い知った。オクレール先生はピアニストなので、ミルヒー先生からは指摘されないような細部にチェックが入った。やっぱり器楽の演奏者は違うんだなあぁ・・・(溜息)一通りヘンデル9曲、オクレール先生にチェックされた箇所を練習しただけで既に2時間以上経過していた。今日は余り合間の休憩も入れていない。その分声帯への負荷を減らすため余り声量は出さずに座りながら軽めに声を出した。部分的なチェックだけでも2時間が経過してしまった。やはり、勉強している曲数に比べて練習時間3時間は非常に短い。しかし、4時間の練習に戻してしまうと、特に今の仕事の身体的疲労度を考えれば何時また風邪をひいて喉を痛めるのかが懸念されるので、ここは無理出来ない。

実は、27日に久しぶりに谷岡先生のレッスンが入った。8〜9月は私自身ヘンデルのリサイタルの練習に集中していたしオクレール先生との初合わせである程度ヘンデルのリサイタルの目途が付くまではドイツ歌曲に気持ちが向けなかった。今月に入ってからは谷岡先生の御都合と私の休日が折り合わずレッスンがかなり開いてしまった。谷岡先生のレッスンで早くモーツァルトのスザンナのアリアを終わらせて、次はモーツァルトの「魔笛」パミーナのアリアや「ドン・ジョバンニ」ドンナ・エルヴィーラのアリアの勉強を始めたいし、来年もウィーンに行く予定なので、ウィーンのB先生の宿題のシューベルト歌曲の勉強やヴィーナーリートの勉強も始めなくてはならない。本当は今日はヘンデルの9曲チェックが終わったら、モーツァルトのアリア5〜6曲の譜読みをしたかったのだが、ヘンデルのチェックが終わった時点でスタジオの残り時間40分(爆死)明日もスタジオ3時間練習でモーツァルトのアリア、特にスザンナのアリアをメインに練習する予定だったので、今日は諦めてモーツァルトは2曲だけ譜読みする事にした。
初挑戦、「ドン・ジョバンニ」のドンナ・エルヴィーラのアリア2曲♪と言っても、もう10年以上も前の話なのだが、私がまだ今よりも全っ然歌えていなかった時に二期会のメゾソプラノの先生にレッスンを短期間受けていた時に一度だけドンナ・エルヴィーラのアリアのレッスンを受けて見た事はあるにはあるのだが、今の私の歌唱レベルから考えたら、あの頃歌ったドンナ・エルヴィーラは経験の内には入らない。歌ってみただけ程度になってしまうのは致し方無い事である。とゆ〜事で、ほぼ初挑戦のドンナ・エルヴィーラのアリア2曲。ドンナ・エルヴィーラ登場のアリアと「逃げなさい、裏切り者から」の2曲の譜読みを行った。
はっきり言って、かなりイケてると思うドンナ・エルヴィーラ(激爆)こんなに歌い易いモーツァルトはマジで初めてだ(猛爆)自分の声をモーツァルト「風」にどうにかしようと余計な事は何もする必要が無い。自然に自分自身の持っている声だけで歌う事が出来る!!!こんなモーツァルトは初めてだ。ツェルリーナやスザンナは苦手意識も強く、その上「嫌い」に近い印象を持っている。勿論自分自身の声質や役柄のキャラクターが私自身のものとはかなり違うという違和感も強く、その上他人様から色々批評されているので今練習しているスザンナなどはほぼウンザリしながら練習していたのだが、ドンナ・エルヴィーラは違う!!!
まず、曲自体がドンナ・エルヴィーラの怒りを表現している構造になっているので、敢えてドラマティックにとか怒りの心情を込めたりとか、そういう余計な事は一切しなくて良い。私の声でドンナ・エルヴィーラを歌うなら敢えて慎重にする事と言えば「綺麗に声を響かせる」という事に尽きると感じた。それくらい余計な事を一切取り除いて楽譜通りに自然に無駄な力を一切使わずに歌う事、これが私の歌うドンナ・エルヴィーラだと思った。無論、アリアの難易度は非常に高い。私が所有しているDVDでドンナ・エルヴィーラを歌っているキャロル・ヴァネスはいとも軽々と歌っているが、当然私の場合は相当歌いこむ必要性がある。しかし、流石ウィーンのN先生!!!私の声のレパートリーにドンナ・エルヴィーラを挙げて下さった眼力は超越していると思う。是非是非、来年ウィーンに行く事が出来るならばN先生のレッスンに必ずドンナ・エルヴィーラを持って行かなければならないし、ある程度ウィーンのN先生からの評価を得たいと真剣に考えている。ドンナ・エルヴィーラは早くレッスンを受けたいし、出来れば早い段階で演奏会本番にも乗せたいと思う。来年、千葉のヤンクミの演奏会ではヴェルディを歌う予定で選曲もしていたが、このドンナ・エルヴィーラを含むモーツァルト・プログラムに変更しようかと真剣に考える事に決めた。最も、谷岡先生が私のドンナ・エルヴィーラを聴いてどのように評価されるかにも拠るのだが。

何だか、一気にモーツァルト苦手意識が治ってしまった(自爆)これからは頑張ってモーツァルトの勉強してガンガン歌って行こうと思う(核爆)
今、もの凄く疲労困憊なんだけど、今歌う事や歌う勉強を絶対に休みたくない。どんなに辛くても歌い続けたい。勿論言うまでも無く、今のペースで歌い勉強続けたら来年ウィーンのレッスンから帰って来た頃には倒れるかもね〜(笑)でも、倒れた時の事は倒れた時に考えよう♪ちなみにそれで息絶えたら、それが寿命という事で結構♪

素晴らしい発見の一日だった。

ヘンデル初ピアノ合わせ・・・・・(滝汗)

今年一番不幸な一日だったよ〜な・・・・・。
まず、今月は昨日まで夜勤10日とゆ〜事で、ほぼ昼夜逆転の日々で疲労困憊、体は鉛のように重く眠気で生あくびばかり出て物忘れも激しく食欲は無いが酒ばかり呑み、気持ちばかり焦って不眠の日々。
しかも今日はかなり運悪く、ピアニストのオクレール先生との合わせが夕方18:30〜だったのに、発声練習のためのスタジオが12:00から1時間しか取れなかった。発声練習後、オクレール先生が本番会場のギャラリーカフェに到着するまで寝てるワケにもいかず、来年ウィーンのB先生のレッスンに持って行く予定のシューベルトの歌曲5曲を楽譜造りしていた。ドイツ語の日本語訳と発音記号と強弱記号&指示記号を書き込む事5曲。しかもオクレール先生はスケジュールが押してしまったらしく約20分の遅れでギャラリーカフェに到着。今日はもともとギャラリーカフェでのピアノ合わせは社長の御厚意でイレギュラーな事だったので、事前にチョコレートの御礼差し入れを持って行ったのだが、ギリギリ正解だったらしい(虚脱)
昼夜逆転・睡眠不足・疲労困憊・練習時間のズレと、悪循環が重なった。その上、ミルヒー先生からは、
「全部9曲ぶっ通しで歌わないでね!!!!!!!!!!」
と散々言われていたのだが、時間の都合で結局9曲ぶっ通しで歌わなければならなかった。ゴメンなさああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・・い。ミルヒー先生(自爆)
とゆ〜ワケで、体にも脳味噌にも声帯にも思いっきり鞭打ったかなりシビアでハードな初ピアノ合わせになってしまった。こんな事なら、楽譜造りはシューベルトの歌曲3曲くらいで止めときゃ良かった・・・と思うのだが、後2曲ベートーベンと3曲ウィーナーリートの楽譜造りが、まだ私を待ち受けているのだ・・・(滝汗)

会場のギャラリーカフェに到着したオクレール先生と、まずピアノの位置の打ち合わせ。オクレール先生はギャラリーの中をくまなく口笛を吹いて歩いた上に私に立ち位置を指定して声を出させた。結局オクレール先生の音響判断の結果、前回のドイツ歌曲のリサイタルの時とほぼ同じピアノ位置に決定した(笑)
予定よりも少し遅れて来たオクレール先生はかなり焦っていたらしい(ように見えた)ので、早速ピアノ合わせに移った。
会場のギャラリーカフェは場所の見た目以上にかなり響きが良い所なので、オクレール先生からは、去年ベッリーニの歌曲&ウェルディのアリアを歌った時よりも、音楽的な事よりも発声的な注意点が多かった。オクレール先生の台詞で一番多かったのが、
「ここは響く場所だから、もっと場所の響きの力を借りて、このホールの響きに助けて貰って、自分で声を抱えてないで声の響きを体から離しなさい」
という事だった。去年は、何か言いたそうな顔をしながらもミルヒー先生の御指導以上の事は余り言わなかったオクレール先生だったが、今年は何言われっかな〜〜〜???と戦々恐々だったが(超苦笑)まあ、発声に関して言うと、これはミルヒー先生にも指摘された事なのだが、普段からミルヒー先生のレッスンも含めて自己練習のスタジオはギャラリーカフェの何十倍も「響かない」スタジオ環境らしい。だから、いざ声や音が響く環境では私は「声を出し過ぎ・押し過ぎ」の傾向になってしまう事はミルヒー先生からも指摘されていたし自分自身良く認識している。それと、疲労困憊の体が自分の思い通りに動かない。これは、今日1年以上振りにピアノ合わせしたオクレール先生には全く言い訳にならない事なので、不幸な現実として目を瞑る(笑)まあ、でもオクレール先生も私が夜勤漬けなのは御存知なので良いと思う。
結局、途中オクレール先生から発声練習も御指導頂いた事と、今日歌った立ち位置がエアコンの真下で風を直撃だった事も手伝い、自分で立ち位置をビミョ〜に調整してはいたのだが、いつもは3時間自己練習していたはずなのに、早くも7曲目から声帯疲労が出始めた。まず低音域の音量が減った。ヤバイな、と思ったがオクレール先生の手綱は緩まなかった。だんだん音程が不安定になって来る、特にアジリダの部分。バロックを歌うならそれ程複雑で超高音域ではなくともアジリダは避けられない。これがバロックや古典の厳しい所以だと考えているし、今後自分が歌って行くレパートリーを考えると今ここで踏ん張って歯を食いしばるしか無い。それでもオクレール先生から、最後に歌ったヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のクレオパトラのアリア「苛酷な運命に涙を流し」のアジリダは、
「良く声が回っていたと思うよ」
と言って頂く事が出来た。前回のミルヒー先生のレッスンでは、自分では全く納得がいかずに何度もミルヒー先生にやり直しをお願いして、帰りはあんまし悲しくて呑みながら、次のオクレール先生のピアノ合わせをどうしたら良いのか途方にくれた事もあった。こんなちっちゃな事一つでも、人間これから頑張って行けるもんなんだなあぁ〜と感動した(爆死)
取り敢えず、一番問題になったのはオペラ「リナルド」のリナルドのアリア「愛しい花嫁」だった。まず、歌うテンポが遅すぎる、息が流れていないし回っていない、アタックが弱い、その割にロングブレスだけは良く続く、という貶されてるんだか皮肉なんだか(核爆)とゆ〜事で、もっとテンポとゆ〜か流れをアップした歌い方に慣れるように練習しなければならない。
それから、特にレチタティーヴォに言えるのだが、リズムもテンポも変化に乏しく表情や表現が見えて来ないとゆ〜事。これは、特に「エジプトのジュリアス・シーザー」のクレオパトラに見られる傾向で、やはりDVDなどの映像を勉強しなければならないだろ〜なあぁ・・・と痛感した。
ギャラリーカフェの閉店時間を30分以上も超過して初ピアノ合わせはようやく終了。ギャラリーカフェの社長に只管頭を下げて帰って来た。嗚呼、チョコレート差し入れしといて良かった(号泣)

ちなみに、余談。
ピアニストのオクレール先生は男性なのだが、もともとピアニストしながら合唱団のヴォイス・トレーニングも少し指導していらっしゃると伺っていたのだが、今日ピアノ合わせをしていて私の発声を御指導頂いたのだが、結構なお美しいカウンター・テナーだった(卒倒)声の響きがとっても綺麗!!!私の声なんかよりもよっぽど綺麗!!!余りの綺麗さに自分の声は放っておいてしばし聴き惚れていた。
つくづく、私の声って美しくないなあぁ、良くもまあクラシック歌ってるなあ、いっその事元に戻って、へヴィメタ&ハードロックに戻った方がいいのかなあぁ、と痛感した。

後ほどオクレール先生に「私よりも全然綺麗な声〜♪」とメールしたら・・・・・・・・・・、
「ピアノがヤバいから、ソプラニスタでデビューしようかな???」
と、返信メールが返って来た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
一人呑み屋で、周囲の不審を買わないように爆笑するのに大変苦労した(猛爆)

確かに、ヘンデルのオペラ「セルセ」の「懐かしい木陰よ」なんか歌ったら、私より断然良いと思う(死)

嗚呼、疲れたけど楽しいピアノ合わせだった♪

「選曲」という「英断」

この「選曲」というテーマも、私自身のブログはさて置き他のクラシック音楽関連の特に演奏者のサイトでも、ゲロが出る程扱われ過ぎていてちっとも面白くも糞も無い話題なんだけど、幾つかの記事を読んでいて流石に呆れるとゆ〜か常識が無いとゆ〜か演奏者の主体性が無いクセこいて聴き手に媚売ってるとゆ〜か。まず第一に自分自身日本では歴史も知識も認識も知名度も浅いクラシック音楽というマイナーな音楽を演奏し、尚且つそのマイナーな分野を自分自身が厚かましくも教師と称して技術を切り売りして生活の収入を得ているという自覚も認識も謙虚さも覚悟も、相変わらず無いんだなあぁ・・・・・(呆)といういささかゲロ吐きそうなくらい食傷気味なのでこのお題で書いた。
演奏会や発表会の選曲は、金を取らないならフリーでOKだし金を取るなら金を払ってくれる聴き手の方々に配慮して然るべきで金を払ったのに知らない曲ばかりだと批判されたくないのなら日本が知ってる日本人曰く有名な名曲をプログラムすれば良いしそのような教育を生徒を持って授業料を取っている先生とやらがそのような指導をきちんとすれば良いだけの話である。無論、誰も知らないマイナーな曲を演奏したいなら聴き手の評価を期待したりアテにしたりなぞ決してしないような教育も必要不可欠で、そのような決意と決断力を育てるのは日本のクラシック音楽の教育には不必要だとでも思っているのだろうか???と、最近のブログを読むと相当に呆れ果ててしまう。聴き手が普段は自分自身の生活圏とは掛け離れたクラシック音楽の演奏会、オケなり弦楽なり金管なりピアノや歌なり、そこでいきなり聴いた事も無いしかもクラシック音楽に無縁な人間が「音」を脳で判別する限度を遥かに超えた曲を演奏して拒否反応を示す事を、ただ単に高尚な埋もれた名曲を演奏する自己満足と比較批判するという馬鹿げた慣例が未だに存在する事が不思議でならない。
私は今まで自分が歌う事に際して金を貰った事は一度も無いし、今後も自分自身が歌う事で金を貰う事は私が生きている限り生涯あり得ない。これは私自身の決定事項であり決して覆さない。ちなみに今年の12月のヘンデルのリサイタルでは、主催のギャラリーカフェのプロデューサーや以前私の歌を聴きに来てくれた友人から「お金を払って貰っても良いのではないか?入場料として高額でなければ良いと思う」とアドバイスは頂いたが、丁重にお断り申し上げた。
理由としては、自分自身のプロフィールに先生方のお名前を載せていない、要するに日本の先生もウィーンの先生も含めて自分の経歴としてアピールする気が無い事、集客意欲が無い事、つまり例え一桁のお客様人数であっても全然OKな演奏会であり続けたい事、例えマイナーな退屈な曲であっても日本人が好きな曲であっても聴き手の意思とは無関係に自分自身が歌いたい曲だけを歌い続けたい事、他人の評価とは別として自分自身の「声」が金を貰える「歌」だとはおふざけにも思えない事、納税処理がウザい事、そして一番は「自分の声や歌で金を貰わなくとも生活出来る稼ぎがある事」である。

日本では「イケてない」クラシック音楽を演奏するクセに金をせしめてその上誰も知りもしない曲を演奏するのに疎い聴き手に自分の耳に心地よい評価を期待するって、音楽の神様に地獄に落とされるかも〜とか思わないのかな???かなり不思議で仕方がない。じゃあ、日本では殆ど演奏されない曲を自分で本場の海外に行って演奏してそれなりの評価を貰えるのかい???と問えばそうでない人間の方が殆どではないのか???

もうちょっと聴き手に配慮するか金を貰う事に謙虚になるか、どっちか片方でもいいから少しは頭をお使いになっては如何じゃあないの???という演奏者が余りにも多すぎる、吐く程多すぎる。ブログを読んでいても気分不快著名。

何が何でも埋もれた名曲を演奏したいなら、聴き手の評価だの身入りは無視しても演奏して然るべきだろうが。大体にして、モーツァルトだのベートーベンだのシューベルトだの、その当時の作曲家の生活をちゃんと音楽大学で勉強して来たのかい???そんなの音大に行ってない私だって知ってるわ(爆)作曲家に対する演奏家の意志なり精神なり、時代は違ってもクラシック音楽の演奏者を自称するのであれば受け継ぐ事を目指したりはしないものなのだろうかいな???

不遜も傲慢も強欲も、大概にして戴きたいものだ。
クラシック音楽の演奏者としてどのような選曲をするべきか、そして自分自身の選曲にどれ程の意志の強さと意思決定の自己責任が重大なのかを、教師なら自らの身を以って教え諭すのが、そして自らも生徒から学ぶ姿勢が必要不可欠なのではないのか。そう考える人っていないの???

もう、マジでゲロが出そう♪お腹一杯御馳走様(爆死)

ピアノ伴奏初合わせ直前レッスン

今日で9月も半分が過ぎた。9月に入ってからもう夜勤(当直)を4回もやっている。日勤は僅か2回。昼夜逆転。思いっきり夜行生活を強いられている。このままではボケるのではないかと・・・(滝汗)
19日夜に今年12月のヘンデル・リサイタルのピアノ伴奏をしてくださるオクレール先生と本番会場のギャラリーカフェで初合わせをする事になったので、毎日戦々恐々としている(笑)今日は夜勤の合間の休日で、ピアノ合わせ直前のミルヒー先生との調整レッスンだった。
朝起きたら超ダルダルで体が動かないし眠いし眩暈はするし吐き気はするし頭痛はするし微熱はあるし、でもレッスンに行かない訳にはいかないので、ほぼ寝ぼけ状態で自宅を出た。レッスンのため都内のスタジオに到着したら、話し声がかすれていたのでミルヒー先生に超心配されてしまった。兎に角、夜勤が多くて休養が取れないので体調管理が大変なのだが、幸いこの時期喘息発作は落ち着いているし、19日にはオクレール先生とのヘンデル初合わせで、しかも会場のギャラリーカフェで行う事になったので、ヘンデルのオペラアリア9曲ぶっ通しの初合わせになるので、今日のレッスンに這って来た事を説明した(超苦笑)
レッスン約1時間なのだが、今日は疲労困憊なので3〜4曲のレッスンで留めておこうと考えていたのだが、発声練習で殆ど問題無く、疲労でかすれた話し声の割には歌う声はきちんと出ていたので、ほぼいつものペースでレッスンを行い、結局9曲のうち6曲レッスンを行った(大汗)流石に息切れした。それでも殆ど大きな問題も無く、途中少し休憩時間を頂いたくらいでほぼ1時間ぶっ通しでヘンデルのアリアを6曲歌ったのだけど、流石に今日はマジで死ぬかと思った(笑)
ミルヒー先生から、ヘンデルはかなり良い状態であると言って貰えたのでこれで何とかオクレール先生との初合わせには体調に最大限留意して臨む事でまず安心だという事になった。休憩している時に、先日自己練習の時にミルヒー先生に勧められたモーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルデリージのアリア「Come scoglio」を譜読みした事を話した。かなり大変で難しいし、どう歌って良いものやらさっぱりワケわかめだった事を話したのだが、ミルヒー先生曰く、
「こんなに難しいクレオパトラがちゃんと歌えてるんだから大丈夫よ!!!ちゃんと歌える、歌える(笑)勉強頑張りましょうよ!!!」
と励まされた。3年前には、ミルヒー先生からフィオルデリージのアリアの勉強を勧められてはいたものの、一体どんな歌い方をするのやら・・・みたいなニュアンスの事を言われていた。私自身の発声や歌唱がこの2〜3年の間でかなり変わったんだなあぁ・・・と実感した。フィオルデリージを大丈夫と言われるようになるなんて・・・嬉し過ぎてちょっとだけ涙が出そうになった(苦笑)
レッスン終了後に、ミルヒー先生からなるべく早めにオクレール先生と一緒にレッスンに来て、特にクレオパトラについての伴奏との調整レッスンをしようと勧められた。19日のピアノ伴奏初合わせでオクレール先生が私のヘンデルを聴いてどのように感じて何を仰るのかは解らないが、取り敢えず今後はピアノ伴奏との調整と今回初めて歌う曲の暗譜が課題となるであろう事はまず間違い無いだろう。
兎に角少〜しだけホッとした。

レッスン帰りに青山のカワイに行って「ヘンデル・オペラセリアの世界」Winton Deen著を購入した。ついでにロベルト・シューマンの本も探したのだが、何しろどの本も歌曲の解説が余りにも少なすぎて話にならなかった。来年はロベルト・シューマンのメモリアルイヤーなので、何か新しい著書が出版されれば良いのだが・・・。谷岡先生に相談してみなければならないだろうし、一応来年ウィーンに行った時にM先生に相談してみようと思う。下手をすれば、英語かドイツ語の解説書を読みなさい〜♪とか言われかねない・・・かも・・・知れない(蒼白)

それにしても、も〜少し夜勤は減らないものだろ〜か・・・・・・・・・(滝涙)

こらあああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜・・・・・!!!!!病棟課長、何とかしてくれえええええぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜・・・・・!!!!!

爆死。

追悼 ヒルデガルド・ベーレンス

夜勤が終わって帰宅後、殆ど眠らずにMETのワーグナー「ニーベルングの指環」のワルキューレと神々の黄昏を観た。途中、眠さで何度か気絶していたが(苦笑)取り敢えずベーレンスのブリュンヒルデを久しぶりに観た。
涙が溢れた。止まらなかった。去年、草津国際音楽アカデミーでお会いしたベーレンスは白髪だったが、ブリュンヒルデを歌うベーレンスは茶色の髪で若々しかった。草津でのマスタークラスでは、ベーレンスは指導は行ったが歌わなかった。それでも、ベーレンスの指導は的確かつ明瞭で、ベーレンス御自身が知らないと思われた曲であっても丁寧に御指導されていた。穏やかな物腰でにこやかで、聴講に訪れていたのは私一人だけだったのだが、何度か笑いかけて下さったのが嬉しかった。言葉は交わしていないが、ベーレンスの指導を通訳していたピアニストの言葉を、なるべく漏らすことのないようにマスタークラスの講義中に、ずっとメモを取っていた。

私が残念な事は、ベーレンスのレッスンを受けられなかった事では無いのだ。昨日のブログにも書いたが、たった一日だけ、夜勤明けの疲労困憊の体を引き摺って長い時間電車を乗り継いで、ベーレンスのマスタークラスを聴講に行った事の真の意味や意義を、私自身いまだに理解・認識出来ていない事が腹立たしい。去年を逃していたら私がベーレンスに会う事は永久に不可能だった。
とても重要な意義の一つは、ベーレンスのマスタークラスのレッスンを聴講してウィーンでレッスンを受ける事を自分自身の意思で決定した事。もう一つは、ベーレンスのマスタークラスを受講していた生徒が、ヘンデルの「エジプトのジュリアス・シーザー」からクレオパトラのアリアを歌っていた事。クレオパトラのアリアの1曲「苛酷な運命に涙を流し」は既に私も勉強・レッスンして演奏会で歌った事のある曲だったのだが、もう1曲「敬愛する瞳よ」は、曲自体知らなかった。マスタークラスの受講生がレッスンでベーレンスの指導を受けているのを聴いて、不遜かも知れないが「私にもこの曲が歌えるんじゃないか?」と思い、東京に戻ってから早速録音を探した。結果、今年の12月のヘンデル没後250年リサイタルで歌う事に決定した。最初、早い段階でミルヒー先生に「敬愛する瞳よ」のアリアをレッスンに持って行った時にミルヒー先生から、
「随分難しいアリアだね。これ、本当に歌うの?」
と確認された位だった(笑)そして、この「敬愛する瞳よ」をレッスンしていてミルヒー先生が、
「あなたならクレオパトラらしいもっと怖い声で歌える筈。目指すなら、世界の基準を目標にしましょうよ」
と言われたアリアだった。
勿論、これだけでも十二分にベーレンスのマスタークラス聴講に草津まで出かけた意義は存在する。

ただ、私の疑問というか希望は、やはりワーグナーに関してなのである。
ベーレンスに直接会うという千載一隅の奇跡の意味の中に、ワーグナーは含まれていないのだろうか?

本当に今日は顔が腫れ上がるくらい泣きながらベーレンスのブリュンヒルデを観た。
まだ、ベーレンスのベートーベン「フィデリオ」とウェーバー「魔弾の射手」のCDが残っている。早く聴かないと(笑)それに、これから追悼盤や特集記事など多数出ると思うので、出来る限り観たり聴いたりしたいと考えている。

ヒルデガルド・ベーレンスのあの穏やかな風貌の一体何処から力強いブリュンヒルデが生まれたのだろうか、草津で本当に不思議な気持ちになった事が、今でも強く忘れる事が出来ないでいる。

訃報

今、夜勤から帰宅した所。
今日夜勤の休憩中にネットで知ったのだが、ヒルデガルド・ベーレンスが先月日本で亡くなっていたというのだ。
動脈瘤破裂、都内の病院で、72歳の生涯だった。
ベーレンスと言えば、カラヤン、ベーム、レヴァインなど共演、METやウィーンやその他世界の主要なオペラハウスで活躍した、ヘルデン・ソプラノだった。
私も、METのワーグナー「ニーベルングの指環」のDVDを持っていて、ベーレンスはブリュンヒルデを歌っていた。

去年、ハリセン先生と谷岡先生の勧めで草津国際音楽アカデミーのベーレンスのマスター・クラスを1日だけ聴講しに草津まで行った。ベーレンスはとても穏やかで、丁寧に受講生に指導されていた。とてもお元気だった。

私は、去年の今頃ウィーンでのレッスンを谷岡先生から持ちかけられていた。音楽に関しては高校どころか専門学校も大学も行っていない私は、幾らクラシック音楽、声楽曲やオペラが好きで勉強したい気持ちがあっても海外でのレッスンには難色を示していた。日本語以外は話せない、学歴も知識も勉強する時間も余裕も無い。ウィーンでのシューベルト歌曲のレッスンを勧められてはいたが、かなり気遅れというか怖かった。その時にハリセン先生と谷岡先生が、草津国際音楽アカデミーの事を教えて下さり、尚且つハリセン先生が聴講を勧めて下さった。私自身いつも時間に余裕が無い人間だったのだが、METでワーグナー「ニーベルングの指環」でノーマンと共演し、しかも私の憧れの役ブリュンヒルデを歌った偉大なソプラノ歌手が、ヨーロッパから遠く離れた東洋の島国日本に後進の指導に来ているのだ。ウィーンで外国人が日本人にどのようなレッスンをして貰えるのかを確認するという目的もあり、夜勤明けで電車を乗り継いで草津に向かった。到着したのは夜中近く、次の日早くにベーレンスの公開レッスン会場に向かった。

今、私が一番強く想う事は、もしも去年ハリセン先生や谷岡先生に草津行きを勧められながらも日程調整が付かない事を理由に草津行きを諦めていたら、ベーレンスに逢う事は生涯不可能だった、という事である。ここから導き出される答えは、一つ。私は去年ベーレンスに逢いに行かなければならなかった、という必然的結果論である。私が、去年、たった一日、レッスンを受ける訳でも無く、それでも私は去年たった一日でもベーレンスに逢いに行かなければならなかったのである。もしも去年私が、夜勤を理由に草津に行く事を逃したら、私は永久にベーレンスには逢う事が出来なかった、という事になる。それはまず確実に間違いが無い事である。

去年、たった一日、レッスンを受ける訳でも無いのにベーレンスのマスタークラスを聴講しに行った事には、必ず何某かの重要かつ重大な意義があるのだろうと考えている。一番悔しくて腹の立つ事は、その意味なり意義なりを私自身が理解出来ていない事、見えていない事である。きっときっと、必ず何かしらの意味なり意義なりは存在するのだろう。一番悔しくて腹の立つ事は、自分自身そのベーレンスとの出会いを、客観的に把握していない所である。
「意味はある。ただそれがどういう意味なのかを考えろ」

今は亡き、三原順の言葉である。

本当に間近でベーレンスにお会い出来ただけに、この訃報にはかなりショックだった。クラシック音楽界で72歳は、若い方なのではないだろうか。
何だか、もの凄く悲しい気分になった。
もっと長生きして、日本に教えに来て欲しかったのに。 
合掌。

「クラシック音楽好き」に名を借りた傲慢

今日は休日でスタジオ練習3時間。スタジオ練習を4時間から3時間に減らしてから多少の物足りなさは感じるものの、自分の喉にかかる負荷を考えれば自重するに越した事は無い。今日もモーツァルトの練習。スザンナとパミーナのアリアを練習した。
最近、自分自身の気持ちにようやく落ち着きを取り戻す事が可能になって来たせいか、スザンナを歌う事が以前ほど苦痛で嫌な気持ちにはならなくなって来た。どのみち今後勉強する予定のモーツァルトのオペラ・アリア、ドンナ・エルヴィーラや伯爵夫人、フィオルデリージやドンナ・アンナ、パミーナやイリアなど、どのみち今勉強しなければならない課題を無視して歌えるものではないので仕方が無いといえば当然なのではあるのだが。
やはり一番の理由は、スザンナなりパミーナなり自分自身の声だけで歌えるようになったという現実だろうと思う。他人の好みや感想や批評や比較などの言葉を気にして拘り意に添うよう努めるなどという馬鹿げた芸当をしようと無駄な努力をしなくなった事の意義は大きい。ついでに、名歌手や名盤と言われる録音も意に介しなくなってから、ほぼ自分自身の声とウィーンで学んだ自分自身の解釈と感性で曲そのものを分析・理解して歌唱に繋げようという努力を行うようになった事は貴重な賜物だろうと考えている。
今日の練習で、まあスザンナはやはりキャラクター的に合わないというか違うというか違和感がかなり顕著に目立ったが、自分自身の素の声で歌うならという条件さえ満たせれば別段歌えないという事もあり得ない。何しろスザンナやツェルリーナに関してはもう2004年頃から断続的に勉強してレッスンを受けて来たのだから。自分で歌う練習をしていても、別に興味も愛着も無いのでレッスンに持って来いと言われればそれなりに譜読みはして行く事は出来る。でも、非常につまらないという事は言いえて然るべきであるが(苦笑)
パミーナに関しては、妙な自信というか安心感がある。自信、は不適切かも知れない。強いて言えば「絶対的な安心感」であろうと思う。何しろウィーンでのレッスンでN先生が、
「あなたの声はパミーナの声である」
と指摘された強みがあるからだ。
勿論、日本のクラシック音楽ファン、殊にオペラ好きでコロラトゥーラやレッジェーロなどのソプラノ・マニアにとっては異論の多い言語道断な話しだろう。しかし、現にウィーンで長年オペラや歌曲を歌い後進を育てオペラ評論を書きコンクールの審査員を務めた聡明な先生が、日本から来た学歴も経験も無いただの歌う事が好きな一声楽家に、
「あなたの声はパミーナの声である」
と仰ったのだから、疑う余地も無い。自分自身ようやく今開き直る事が出来るようになってきた。もう「自分の素の声で歌うパミーナで良いのだ」と思えるようになった。マティスもポップもドナートもボニーも聴く必要も無ければ参考に勉強する必要も無い。
最も大切で重要な事は、ウィーンのB先生が仰ったように「自分自身の解釈と感性で歌う」という事なのである。今更ながらようやくその事に気付いた。スザンナでもパミーナでも、自分自身が他の歌い手を参照とするのではなくまず自分自身の声で自分自身がその曲をどう歌いたいのか、作曲家や曲そのものと向かい合い対峙し立ち向かわなければならなかった。
たかだか、ただの他人様に気に入られんがために、自分自身の声をたった半年とは言え無駄にして来た事は、ハリセン先生や谷岡先生、ミルヒー先生やオクレール先生、ヤンクミやピアニスト先生に大変失礼な愚鈍極まりない行為だったと自らを省み深く反省しなければならない。
なによりも、例え誰が見捨てても決して私自身と私の歌声を見捨てる事の無い先生方に対して、なんと不敬な勉強態度だっただろうかと情けなくなる。どの先生方もどのピアニストも、誰が私に対して自分自身の好みを語り誇った事があるだろうか。決して無い。
今日自分でスタジオ練習でパミーナを丁寧に音取りしてみて感じた事が少しだけあった。この余裕は何だろうか、と不思議に思った(笑)パミーナに関して言えば自信は、無い。恐らく「安心感」なのだと思う。ウィーンのN先生が私にパミーナという音楽を見つけてくれたのだから、何の心配も不安も持たずに自分の持っている声で歌って良いという安心。まるで子供が母親に抱かれるような安心感がある。だから、名盤も名歌手も好みも、何も気にせずに歌えると思う。無論、私が歌うパミーナなぞ日本では求められている訳も無いので日本で歌う必要性も皆無だ。歌う事があるとすれば谷岡先生からの依頼なり指示なり勧めがあった時だけで十分過ぎる位である。逆に私自身が、わざわざ偏見と歪んだ美意識の名のもとにオペラ・マニアを自称する傲慢極まりない人間の前などでは決して歌わない、という極めて毅然とした節度と適切な認識が必要である。誰が他人如きの興味本位に踊らされて歌うものか!!!どのみち演奏会やリサイタルで金なんか貰った事も無ければ、今後も自分が歌う事で金を貰うつもりも全く無い!!!

もう休日は休んでいるヒマは無い。
そういえば、先日とっても良い薬が手に入ったので安心して歌える。

困った!!!

昨日、仕事で緊急入院が5人、しかも1週間振りくらいの日勤でリーダー業務の上に重症患者さんを受け持っていたため、自宅に帰宅したのが夜20時過ぎ(滝涙)しかも、帰り際にギャラリーカフェに閉店時間ギリギリに滑り込みセーフ状態で行って、今月中にヘンデル・リサイタルのピアニストのオクレール先生がギャラリーカフェ視察も兼ねてピアノ合わせを出来ないかとの御要望があったので、その相談でギャラリーカフェの社長と打ち合わせに行った。
ヘロヘロになりながらまず酒を一杯(笑)
一昨日、スタジオ練習後に携帯電話を買い換えたので、新しいパソコン&新しい携帯電話で何だか少し嬉しいカンジの筈が、仕事で疲労困憊でダルダル状態だった(爆死)一息付いてからパソコンを起動、後はFTPにホームページをアップロードすれば良いだけに作成を終えてあったのに、いざアップロードしてみたらホームページが立ち上がらない!!!!!(驚愕)兎に角、色々試してみたのだが、幾らやってもホームページは立ち上がらず、プロバイダのホームページ作成手順などを参照して何度も試行錯誤を繰り返したのだが、結局ホームページは立ち上がらなかった(誤爆)
いい加減疲れ果ててホームページ立ち上げを断念したのが夜中の1時を回っていた(核爆)流石に今日の所は諦めた。またホームページ作成の本でも購入して明日の夜勤明け後にでも、ホームページ立ち上げで不眠不休の作業を繰り返さなければならないだろう。ワードからホームページのアップロードの仕方、これで良かったと思ったんだけど・・・(自爆)嗚呼、疲れた。

とゆ〜事で、リンクをお願いして快く承諾してくださった皆様、今しばらくお待ちくださいませ。

では、これから夜勤に出勤致します・・・・・(超凹)

マリア・カラス的最期

先月末から連続夜勤、しかも今、長年放置プレイだったホームページ再開のために自宅にいる時はほぼパソコンと格闘中♪不眠だから脳味噌はフル回転で薬を飲んでも眠気は余り無いのだが、何しろ体が超ダルダル・・・。目が覚めても体が動かない・・・。本当はぐっすりスッキリ熟睡出来れば疲労も取れるのだろ〜が、目だけが覚めて脳味噌だけは勝手に働くのだから仕方が無い。もういっその事、永遠の眠りに就けたらいいのになあぁ・・・と思う今日この頃。永遠の眠りに就けたら、超ダルダルで疲労困憊しきった体を引き摺り起して活動する事も無いのになあぁ・・・くすん(滝涙)
今月は15日の夜勤をこなしながら、年末に行うヘンデル・オペラアリアのリサイタルの準備がもう本格的に始まっている。ギャラリーカフェに申し込みを正式に行ったのでギャラリーカフェのお知らせに掲載されてしまった。それとここの所連日ピアノ伴奏をしてくださるオクレール先生とメールでピアノ合わせの日程調整中。私がほぼ夜勤で連絡が取りづらい状況なので、お手数をかけてしまっている。
昨日は夜勤明けで帰宅してからホームページの作成をほぼ終わらせた。幾ら凝って作っても放置プレイになってしまっても仕方が無いので、今回は至ってシンプルにした。サーバーの申し込み、BBSやブログのアップ、FTPアップデータの準備など、かな〜り昔にホームページを作成した時の事を思い出しながら何とか作業を進めた(苦笑)後は歌に関する細かい情報を順次アップしていくだけまで済ませた。ブログのリンクなど何人かの方にお願い申し上げたら、少しづつ良い御返事を頂けたので、ホームページ再開は何とか順調に漕ぎ付けている。
でも、今日も疲労困憊で動くのがやっとなんだけど、リサイタル準備や来年のウィーンでのレッスンの準備が心配でロクに休む気分には到底なれないので、午後からスタジオ練習3時間、ギャラリーカフェで楽譜作りをしなければならない。10月に入ったら、ウィーンの先生方とも連絡を取り合って来年ウィーンに行く日程調整に入らなければならないだろう。
まあ、喉だけは壊さないようにしなければならない。ぶっ倒れて息絶えた時はその時考えよう(爆)
最近、永遠の眠りに就けたら楽なのになあぁ〜・・・と思うようになって思い出したのが、マリア・カラスの最期。パリの自宅アパートで50歳代でひっそりと静かに息を引き取った。歴史的な世紀の歌姫の代名詞とはかけ離れた死だと多くの音楽雑誌や本に書かれていた。
でも、私はとても素晴らしい死だと思う。私も是非是非見倣いたいものだと思う。でも50歳代はちょっと長生きし過ぎかも(笑)
私は看護師をしているので、人間の死の場面に非常に多く接して来た。本なんかで語られるマリア・カラスの死よりも現実にすぐ自分の目の前に日常的に死が存在する。現実的かつ日常的な死を身近に見ていて今非常に強く感じる事は、死ぬ時は人間何一つ持って死に赴く事は出来ない、という事である。だから、静かにひっそりと死に赴くという事がとても人間の死へのプロセスとしてとても自然に近いフォルムに思える。多くの近親者に囲まれながら悲嘆に暮れる死も、それはそれでアリなのだと思うし人の好き好きなんだろうと思うが、死の静寂から掛け離れているよに感じてしまう。
眠い人に眠る事が必要なように、空腹な人に食事が必要なように、命が尽き果てかけている人には、死が必要なのだと思う。自分に死が必要な時に、感情的な喧騒の死はイヤだな・・・と思う。せめて死ぬ時くらいは静かにのんびり死にたいな〜・・・と思う。だから、マリア・カラスの最期に非常に憧憬を感じてしまう。大体にして、死なない人間も不死身の人間も、存在しないんだし。

と、そろそろスタジオに行く準備しなくては。今日は疲労が強いので軽くモーツァルトの譜読みぐらいにしておく予定。年末のヘンデルのリサイタルからウィーンへ行くまで、喉を壊しているヒマは無い。
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