晴れの日はANDANTE

私のライフワークである歌曲やオペラ、日々の練習やレッスンについて、気ままに綴っていきます。

2009年11月

神様がくれた才能

今日、久しぶりに喘息発作を起こした。リサイタル直前という事で相当慎重になっていたのだが、流石に仕事の蓄積疲労と天候が重なると、キッつい。
病院で治療した後に、近くの本屋で「のだめカンタービレ」23巻を購入して帰宅。雑誌で読んでいたのだが、帰宅してもう一度読み直し。

夕方、何気にテレビをつけたら、辻井伸行の特集をやっていた。子供の頃の映像から、ヴァン・クライバーンコンクールで優勝してアメリカ・デビューするまで。
はっきり言って、今までは辻井伸行に興味が無かった。私はただの普通の人間なので、天才に対して共感するのは不可能だ。音楽というカテゴリーはあっても共感する部分の無い人間には興味は持てない。残念ながら、私は賞や経歴やハンディキャップに飛びつく性格では無いので。今までも度々テレビで特集されたり雑誌などは出回っていたが、CDを購入してまで聴くつもりは毛頭無かった。
でも、今日偶然テレビをつけた時は、今までとは全く違い、辻井伸行の特集に見入っていた。全くの全盲状態で生まれて来て、玩具のピアノで「ジングルベル」のメロディーを弾き、ピアノを習い始め、数々のコンクールに入賞し、ヴァン・クライバーン・コンクールで優勝するまで。
もし、2ヵ月前の私だったら辻井伸行の特集は見なかっただろうと確信する。
最近偶然お知り合いになれた方が、同じ状況である方だった。でも、私と同じ歌を勉強して歌われていて、一生懸命レッスンを受けてコンクールなども頑張って目指されていた。
間近に辻井伸行と同じような境遇の方がいるという事で、どれだけ今迄自分自身の視界が狭く閉鎖的であったのかを目の当たりに見せつけられた。誰でも無い私自身が一番、他人を表面的に判断して先入観を持って色眼鏡で見ているのではないのか?そう実感した。
しかし、確かにそれは良くない事ではあるが、それ以上に私は自分自身で確認・信頼しないものを鵜呑みにする事の方が遥かに避けるべき事と考えている。
情報過多の中で、まず自分自身の判断や認識の無いものは、それが幾ら社会的評価を得ているものであっても盲目的信頼は妄想に値する。

では、私にとって大切な事とは何か?それは、自分の認識に誤りがあると理解したら即座に改める、という事である。だから、今日の辻井伸行の特集は本当に心が洗われるような思いで見る事が出来た。本当に素晴らしいピアニストなんだなあぁ、と素直に思う事が出来た。今後、彼がバッハの平均律を弾くような事があれば、是非聴いてみたいと思っている。

辻井伸行の特集を見て一番強く感じた事は、目が見えない人だからこそ、目が見える人には「実は見えていないもの」、見えないからこそ感じ取る事の出来る何かがあるのかも知れないと思った。当たり前のように見えているからこそ何の疑問も持たずに、自らの目に入ったものを何の疑問も持たずに鵜呑みにしてしまうという「愚」を、見直さなくてはならないだろう。目が見えない事で生活の不便は多くあるだろうが、美しい音楽を奏でる障害は目が見える人間とどれ程の大差が存在するだろうか。否、である。

この事に気づかせて貰えた出逢いを、心から神様に感謝している。
辻井伸行という素晴らしい音楽に気付く契機を与えてくれた、彼女にも感謝している。

人間はちゃんと誰もが神様から大きなプレゼントを貰っているのだ。気付かない人もいるだろうが。

「のだめカンタービレ」23巻、最後にリュカがのだめに言った言葉、

「おじいちゃんが、僕の才能は神様がくれたんだから、ちゃんと世のため人のために使いなさいって言ってたよ」

と描かれている。
私も、そんな気持ちを彼女に伝えられるようにヘンデルを歌えたらいいなあぁ、と思う。

今日の練習〜♪

亀田興毅選手、世界フライ級新チャンピオン誕生。

「のだめカンタービレ」の最終巻、まだ購入していない・・・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/
今日、何度も本屋の前を通り過ぎたのに・・・・・(凹)
明日、購入しなきゃ・・・・・(汗)

今日は、3時間のスタジオ練習だった。スタジオは夕方からだったので、昼過ぎまで腐る程、寝た(爆)
スタジオに行く前にカフェに寄って少し読書。先日慌てて表参道のカワイ楽器で購入した「ヘンデル・オペラ・セリアの世界」をまだ読み終わっていない・・・(自爆)リサイタル本番近いのに、一体ど〜すんだあああぁぁぁ〜〜〜!!!とゆ〜事で、元々読書は苦手なんだけど、電車の中とかなるべく読むようにしている。後100ページ位で読み終わる。
今日は少し寒かったので、カフェで本を読みながらくしゃみをしていたら、ギャラリーカフェの社長が、

「どうしたの?また風邪ひいちゃった???」

と心配してくださった。う〜ん、本番近いからなあぁ・・・。でも、普段超頑丈なので、たまに心配して貰えると結構嬉しいもんだなあぁ〜♪流石にアラフォーになると、オバサンはそういった心遣いの対象から早々に消去される運命にあるんだあぁ〜と実感する今日この頃。

で、少しお茶しながら読書して、スタジオへ練習に行った。
今日は兎に角、以前のようにミルヒー先生に指摘された「太くて深い声」のポジションを取り戻す事だけに集中した。
実は昨日、ピアノ合わせレッスンが終わってから、ミルヒー先生と電話で話した。ミルヒー先生は、私を「太くて深い声」に育てようと考えてくださっているのだとはっきり仰られた。だから、今後はオクレール先生も含めて色々な事を外部から指摘されても、一切気にしないようにと、言われたのだ。これは、結構自分的にも想定外だった。元々頭部のポジションの低さや頭部の開き方が不足している事はミルヒー先生も含めて色々な先生に指摘され続けて来た事である。今回、オクレール先生との2度のピアノ合わせで、もっと声の響きを集めて細くする事も、同様に指摘され続けて来た事である。それでも私の場合、昨日もブログに書いたけれども少なくとも声の響きを集めて細く発声する事を心掛けたトコロで、私の声の太さにはあんまし変わりが無い(苦笑)だから、昨日のピアノ合わせレッスンでミルヒー先生に衝撃の指摘をされるまでは、自分でも結構良いカンジに発声が纏まって来たかな〜?と考えていたのは間違いが無いんだな、これが。
でも、私が自分自身想像していた以上に、遥かにミルヒー先生は私の声を「太く深く」イメージされていたという現実に相当驚きを隠せない。

はっきり言って、超が100個付くほど、嬉しいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・・(滝涙)
人生、酷い事や悪い事や悲しい事や辛い事や、裏切られたり欺かれるような事ばっかりでも無いんだなあぁ。

とゆ〜事で、今日のスタジオ練習3時間は、ヘンデル・オペラアリア・リサイタルの9曲すべて、ミルヒー先生のオーダーの発声に戻すべく練習を行った。
ブレスは全て地面の下から吸い上げる気持ちで、下顎と下腿を繋ぎ合わせる気持ちで声を自分の背後から天に向かって響かせる(意味不?)
それを、9曲全て一通り歌い直した。流石に、この発声方法は慣れないと全身に力が入りやすいし、声の勢いも非常に付いてしまうので、声量・音量は自己MAXに近くなる。でも、それ以上に全身を使うので、特に下腿の筋肉を最大限に使うので、声帯の疲労で多少話声は掠れ気味にはなるが、喉の痛みは全く無い。
従って、ミルヒー先生の言う通り、下腿の支えを中心に深くブレスを取れるよう勘を取り戻せれば、もう少し太く深くても軽く発声する事は可能だ。今日のように、最大音量で練習しなくとも大丈夫だろう。相当勘は取り戻せたと思うので、次回ミルヒー先生の直前レッスンで、後は自分の発声を確認・微調整して行くという事でどうにか行けそうなカンジだ。

今の私がどんな声なのか、それは私の歌を聴きに来て下さる人にしか解らない事なので、リサイタル当日が楽しみになるようにラスト・スパートで頑張るしかない。
でも、やっぱりクレオパトラは歌っていて、とっても楽しい(苦笑)特にここ最近は、特にレチタティーヴォで私自身が考える「クレオパトラ」の表情を付ける事に力を入れている。無論、私が持っているダニエル・ド・ニースのクレオパトラとはエラく違うが(爆)
絶対に、私だけの「クレオパトラ」を歌いたいと心から願っている。

私が最も目指す至高のクレオパトラとは、キャバ嬢でも美しき悲劇の女王でも媚売るジュリアス・シザーの奴隷でも無い。策略と知略に長けた狡猾で妖艶な、誇り高き激情のエジプト王女、クレオパトラである。

もうリサイタル本番まで秒読み段階だが、例年と違って差し迫った緊迫感とゆ〜か脅迫感みたいなものが無い。まあ、今回のヘンデルのリサイタルは随分以前から準備を重ねて来た事もあるし、クレオパトラにチャレンジ出来る嬉しさが大きかったからなのかも知れない。

リサイタル本番、自分の演奏が出来るように後少し頑張って最後の調整をして行けるよう頑張りたい。

クレオパトラの小姓役、ニレーノのアリアが歌いたいんだけど、ベーレンライターの楽譜は削除されていてアリアの楽譜は掲載されていなかった!!!その上、カール・リヒター指揮「エジプトのジュリアス・シーザー」のCDにもニレーノのアリアは録音されておらず、超ガッカリいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・・(絶句)
これから、ニレーノの楽譜を意地でも探し、絶対に譜読みして歌えるようになってやるううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・・(涙)

その前に、本番本番(誤爆)

ミルヒー先生VSオクレール先生

ここ最近、病棟業務が無謀とも言える多忙を極めた。患者さんの急変・重症化・死亡が多く、勤務時間12時間以上という事態だった。流石にブログを更新する余力は何処にも存在しなかった。

今日は、ヘンデル・オペラアリア・リサイタル前の初のミルヒー先生&オクレール先生との3人でのピアノ合わせレッスンだった。ミルヒー先生とは中々スケジュールが合わず、ヘンデルのリサイタルの曲をレッスンして頂くのは超久しぶりだったし、オクレール先生とのピアノ合わせをチェックして頂くのは今日が初めで最後である。それなのに、土曜日の午後はスタジオの確保が非常に困難を極めた。オクレール先生のお仕事の都合で都内23区内のスタジオを探したのだが、何処も既に空きが無く、昨日の夜ようやく高円寺のスタジオを2時間確保出来た。ミルヒー先生もオクレール先生も私自身も、スタジオ到着までかなりの時間を要したが、兎に角今日ミルヒー先生にヘンデルのアリア、特にクレオパトラのアリアをチェックして頂かなくては、本番まで機会が無いので、先生方も私もギリの時間調整となった。
私は、ピアノ合わせ前に発声練習のためにいつものスタジオを予約したのだが、蓄積疲労で寝坊してスタジオに15分遅れで到着。発声練習を約40分行ってから高円寺に向かった。

スタジオは初めて使用する所だった。4畳にアップライトピアノだったのが、結構綺麗な新しいスタジオだった。

今日は主にヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のクレオパトラのアリアを重点的にミルヒー先生にチェックして頂かなくてはならない。早速、クレオパトラのアリア5曲歌った。最初は、スタジオまで焦って駆け付けた事もあり息が上がってしまってブレスが不足がちだったのだが、疲労の割には声も響いていたし声の伸びも悪くなかった。暗譜も出来ていたし、何とか行けるかな?というくらいのコンディションではあった。しかし、クレオパトラのアリア5曲歌い終わった時に、ミルヒー先生から衝撃的な言葉が発せられた。

「あのね、暫くあなたの声を聴いてなかったんだけど、今、わざと細くしようとしていない???ヘンデルを歌おうとすると、こういう細さになっちゃうのかしら???それとも歌う曲が多いからわざと細く軽く歌おうとしているのかしら???以前のあなたはね、もっと太くて深い声が出ていたのよ。今のあなたの声を聴いていると、こんな声の人だったかしら???と思ってしまったのよ。今は、上のポジションだけで歌っているような気がするのよね。もう一度、以前の発声に戻してくれる???」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
一瞬、4畳の狭いスタジオが緊張し凍りついた。

確かに、オクレール先生との2度のピアノ合わせで声の響きの太さとポジションの低さと頭部の開き方の不足を指摘されたので、努めてこれらを重点的に改善すべく努力して来た事は間違い無い。ただ、私の声は少なくとも自分自身細く軽く努めて歌ったとしても、決して細い声の響きとは言えない声質である。増してヘンデルのオペラアリアを9曲歌うともなれば喉の疲労も考慮しなくてはならない。しかも、9曲の最後のクレオパトラのアリア2曲が最もドラマティックに歌われなければならない曲なので、どうしてもエネルギー配分は考慮せざるを得ない。そこに来て、オクレール先生から、もう少し声の響きを集めて細く当てるようにとの指摘を受けて来たので、ミルヒー先生に指摘された事はマジで逃れようも無い現実だった。
オクレール先生は、無言というか、ノーリアクション。
私は、10分休憩を頂き、リサイタルの前半で歌うアリア、オベルト・リナルド・アルミレーナ・セルセのアリアを歌った。勿論、発声は声の太さは考えず、整った声を出そうとはせず、凡そ2ヵ月位前のまだミルヒー先生のレッスンで歌っていた時の体勢に戻って声を出す事に集中し務めた。すると、ミルヒー先生から、

「そうそう♪大分戻って来たわね。その声よ。でもまだ中途半端だから、もっともっと下(のポジション)を使って声を出して。今のあなたが歌った声の太さがあなたの声なのよ。その太さと深さが必要なのよ」

と指摘された。少なからずこのような状況だと混乱はする。しかし、私が今までレッスンを3年以上受けて来て私の声を最も知っているのは、他の誰でも無いミルヒー先生なのである。オクレール先生は、無言。勿論私も敢えて何も言わない。兎に角、ミルヒー先生が私に要求している発声に戻す事が緊急の課題となった。しかし、ミルヒー先生に指摘されてからすぐに元の太くて深い強い発声に戻りつつあったので、それ以上ミルヒー先生からは疑問の声は挙がらなかった。
最後、アルミレーナのアリアは低声用のキーなのでレチタティーヴォが今一つ声の響きが当たっていないという事で、リサイタル本番前にもう一度ミルヒー先生とレッスンをして調整する事になった。
オクレール先生からは、少しだけ指摘があった。

「その太さの声だと、ダ・カーポの装飾音やアジリダは声が回らなくて厳しいんじゃないかな?」

と言われたが、決して譲らないミルヒー先生(超苦笑)

「今はまだ以前の発声に戻りきってないから、下の(ポジション)支えが不十分だけど、きちんと下の深い所で支えられるように戻れば、それから(声を)軽くする事は十分可能だから、大丈夫!!!」

私は一人凍りついていた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(爆死)

最も言える事は、ミルヒー先生が私の声を「太く深い」声に育てようとしているのだ、という事である。ミルヒー先生曰く、

「それがあなたの声だから」

という事である。ミルヒー先生の教育方針で私自身喉を痛めたり疲弊させているワケでは無い。確実に私の声は成長しているのだから。
最も、今回はミルヒー先生とオクレール先生とのピアノ合わせレッスンが遅すぎた事は良くなかった。でも、やはりミルヒー先生とオクレール先生とのレッスンの擦り合わせは非常に重要事項であった事は言うまでも無い。恐らく今日のピアノ合わせレッスンで、オクレール先生にもミルヒー先生の私に対する方針を御理解頂けた事は言うまでも無い。しかも、リサイタル本番はミルヒー先生が御来場予定だ。
明日からの自己練習では、今までとは違い、自分の声をより深くより太く(笑)。以前の調整に戻す事に努めなければならない。でも、以前は出来ていた事なので、然程難しい事では無い。
恐らく、オクレール先生には多少の異論もお持ちの事とは推察されるが、ミルヒー先生に軍配が上がった以上、私がやらなければならない事は、ミルヒー先生に要求された「太く深い声」でヘンデルを歌う事に尽きる。これは変更の余地無し。
しかし、オクレール先生の指摘によって頭部のポジションを高くする事や頭部を開く事が以前よりも遥かに可能になった。これはやはり非常に感謝している重要項目でもある。

複雑な一日だった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(苦笑)
でも、ミルヒー先生の言葉によって今後の方向性が一つ見出せて確定した事は、非常に喜ぶべき事で私自身とても安心している。
自分の声を細くしようとした事はオクレール先生の責任では無いと思う。
今迄の、何の責任も負わないくせに無責任な感想ばかり垂れ流され向けられて来た事による、くだらないコンプレックスだったと反省している。
何の関係も無い人間の戯言よりも、ミルヒー先生の言葉を信じるのは至極当然の事であるのだから。

明日から、また修正&調整の日々だ。

結果を出すという事

私は、声楽を勉強し始めてから、他人と比較されるというシチュエーションが極めて少ない。
ミルヒー先生や、谷岡先生&ハリセン先生、その他以前にレッスンを受けていた先生方でも、同じような年齢のアマチュアは殆どいなかった。年配か、年下が圧倒的。しかも、声の質も同じようなアマチュアには会った事が無い。
かなり以前にはコンクールやオーディションなどの雑誌を調べてみたりもしたが、興味も湧かず、モチベーションも無かったので考えていない。アマチュアのコンクールは、ただ単に「出ただけ」的なコンクールが殆どだし、酷いコンクールになると、年齢制限は当たり前、演奏時間制限まであり、演奏時間の長いオペラアリアなどは「曲のカット可」などという全く訳の解らないコンクールまで存在する。歌う曲をカットして、一体何を審査するというのだ???摩訶不思議。
だから、自分が他人の歌唱と比較される、というシチュエーションが非常に少ない。元々アマチュアなのだし、他人と比較される事によるメリットもデメリットも存在しない。アマチュアの訳の解らないコンクールに出て歌う勉強なぞするよりも、自分が歌いたい曲を歌えるようになるような勉強をした方が余程マシで、特にウィーンでレッスンを受けてからはコンクールの必要性は私の中ではゼロ。コンクールで賞を取るイコール海外留学、みたいな構図は撤廃された。無論、ただのラッキーだった事には何等変わりが無いのだが。

でも、例え他人に評価される機会が存在しないからと言って、私が結果を出すという事に丸っきり関心が無いなどという事は有り得ない。他人からの評価が無い、または他人からの評価をアテにしないが、進歩成長だけは重ね続けて行かなければならない。そうでなければ、勉強したりレッスンしたりする曲の難易度も上げる事は不可能だし、増してリサイタル開催なぞ出来る事では無いからだ。私にとって一つ一つの演奏会本番を自分なりに結果を分析・評価する事を地道に細々と続けて来たからこそ、今の自分が存在するのだから。
私にとって「結果を出す」という事の条件が存在する。

先生方からレッスンで教わった事や自分で勉強・練習した事が、演奏会本番でも同じ演奏が出来る事。
自分自身が実現したいと考えている歌唱が、演奏会本番で実現可能である事。
自己分析・自己評価を他者に依存しない事。
自分自身の演奏に責任を持つ事の出来るレパートリーが存在する事。
極めて適切な自己分析・自己評価が可能であり、レッスンを受けている先生方の分析・評価と極端な乖離が存在しない事。
これらが必用条件となる。

結果とは、飽くまでも後からしか付いて来ない。評価を見越した計算上の努力の結果というものは、存在しない。結果を得るという事は数字では表わされないので、それ程甘いものでは無い。数字で表わされる結果というのは理解に苦しむ必要性が低いという点では利便性が高いが、私は自分自身の声質も含めて自分自身の歌唱を、全く知りもしない連中に数字上の評価をされる事には、全く良い気分にはなれない。そんなもので判断される事は、心外。
何度も書くが、結果は後からしか付いて来ない。即ち、結果が目標になってしまったら成長は結果止まりになってしまう。目の前の結果の先には、遠い大きな目標が無ければならない。そうしてこそ、進歩と成長が出来るのだと私は確信している。自身が望む結果の焦点を何処に置くか、という問題は成長の課題に直結しているというのが、私の持論である。
数値的結果は見た目に解りやすいので脳味噌を酷使する必要が無い分、非常に人間は怠惰になりやすい。結果が他人から与えられるべきものであるという認識で結果を追求した場合、人間的進歩や成長に遅滞が生じるという事は、私自身がアマチュアであるという条件によってより一層明確な現実であるという事を認識する。
数値や順位などに依拠しない結果、というものは、他人から貰うものでは無く自分自身の力だけで掴み取るしか無いものであると考えている。それが私自身の信念であり道である。その道が、ウィーンへと続いていた事は、何物にも替え難い幸福である。

どのような結果にせよ、私自身が最も悔しい評価は、

「練習不足だ」

という評価をされる事である。無論、他者評価だけでは無く自己評価もまた然り、である。
他者評価以上に自己評価の基準を厳しく設定するという事は、一見無謀なように思えるが成長の方法論としては非常に有効であると私は考えている。評価の基準と認識の設定を自分自身の都合と他者の言動の変化によって、変動させるなどという馬鹿げた事さえしなければ、一貫して自分自身に厳しいスタンスを維持する事は決して間違った方法とはならないと考えている。

私自身の「結果」とは、ウィーンへ続く道の一つとなった。
私が追い求める結果は、数値や順位では無いし、決して終わりが無い。そして、自分自身の努力によって続ける事が出来る、失われないものである。

7月、風邪で喉を痛めて満足に歌えなかった悔しさ、悲しさ、辛さは、全てヘンデルのリサイタルで纏めて倍返ししてやろうと思っている(笑)
私は、結果の先にまた新たな結果が延々と続いて行く。
私が歌い続ける限りは。

歌と同じくらい美しいもの

今日、フィギアスケートのグランプリ・ファイナル出場選手が全て決まった。

今、真央ちゃんは、どうしているのだろう。

フィギアスケートは、声楽にとても良く似ている。
全体の流れ、演技や演奏を包括的に把握し、自分が得意または可能な技を織り交ぜて一つの純度と精度の高度な技術を演技・演奏する。自分の最も得意とする技や技術を最大限に活かす事の出来る「音楽」を厳選して演技に臨む。ジャンプやスパイラルやステップ、超高音や超低音やアジリダや20拍ものロングブレスなど、自分自身の持てる可能な限りのテクニックを駆使する。調子が悪い時には、ジャンプのコンビネーションの組み合わせを変えたり、ブレスの箇所を変更したり増減したり、カデンツァのバリエーションを変更したり最高音を下げたり、瞬時の的確な判断能力によってミスを最小限に止める技術が非常に重要である。音楽に効果的な衣装を選択したり、自分の好きな色やポテンシャルを高める色を厳選する。音楽に自分自身の持てる全ての技術で感情や感性を表現する。高度なテクニックだけでは人間の感情を表現しきれず、感情的表現だけでは美しい芸術とはなり得ない。技術だけでは不十分極まりなく、年齢は然る事ながら、身体的・精神的成長によって表現能力を成長させる事の出来る可能性を内包している。無論、声楽とフィギアスケートでは、その年齢的範疇に乖離は存在するのだが。

そして、最も類似している点は、自分自身に最も厳しい試練を課し自ら苛酷な鍛錬に耐える事でしか、結果を導き出す事が難しいという事である。


もう一つ、とても声楽に似ているものがある。
魔法は、声楽に歌に、とても良く似ている。美しい呪文は美しい言葉で聖なる力を与えられる。呪いの呪文は恐ろしい言葉により心や体や命に致命的な苦痛や打撃、時には死を与える。言葉を操るという点では、魔法と歌は非常に似ている点が大きい。美しい言葉は善き力を与える呪文に、恐怖の言葉は呪いや死を与える呪文に変わる。言葉の威力という点、それらが与え得る美や感情という範疇に於いて、歌と魔法はとても近い存在であると、私は考えている。
私は、映画「ハリー・ポッター」シリーズが大好き。DVDも、「不死鳥の騎士団」までは全て持っている。でも、最新作はまだ観ていない。劇場には観に行かない。だって、酒呑みながら観る事が出来ないし、重要な場面を即座にリピート出来ないからだ(爆)
ハリー・ポッターは試練の連続だが、絶対に決して「英雄ポッター物語」では無い。そして、いつも「死」と向き合い、「死」を背負いながら物語は展開する。私の最も愛する、最も得意とする、最も身近な、最も必要な、そして人間から決して絶対に永遠に切り離す事の出来ない「死」。「死」があるからこそ生は輝き、正義も感情も愛も裏切りも屈辱も名誉も謙遜も隠匿も、人間にとって大いなる財産となる。これら全てに立ち向かい打ち勝つなんざ、ハリー・ポッターでも不可能だろう。最も大切で必要で人間自身が最も逃げてはならない事は、あらゆる苦難や逆境や不幸や危機を、乗り越える事でも無く、逃げる事でも無く、挑む事でも無く、逆らう事でも無く、たった一つだけ「向き合う」事だけだと、私は考えている。


それが出来ない人間を「臆病者」と私は呼んでいる。


その為には、フィギアスケートでも魔法の呪文でも声楽でも、観察・分析・対策・計画・立案・実行・評価etc・・・・・そして繰り返し。

いつの世も、どのような分野も、「美」の実現は非常に手間暇がかかる(苦笑)

で、真央ちゃんは今どうしているのだろう???
人間である以上、天才にも試練は必要なのだろうか(苦笑)
問題は、真央ちゃん自身が、何と戦い何と向き合い何を目指しているのか、という事ではないのだろうか。
結果や成績の如何で応援したり支持したり、そういう美的感覚の欠片も存在しない嗜好性は尊敬するに値しない。
真央ちゃんが、例えどのような形であれ、戻って来る事をいつまでも待ち続けたいと思う。
本当の味方とか、愛情とか、信頼とか、憧れとか、期待とか、そういう気長なカンジでいいんじゃないかな、と思う(笑)

モーツァルト、はっきり言ってヘンですよ!

昨日で今月4日連続夜勤×2回の超ハードワークが一旦落ち着いた。病棟課長、拷問か?早期退職勧告か?(爆)

一昨日の夜勤は、新入院の患者さんが何人かいたのだが、私のチームに一人の某大学准教授の男性の方が、発熱で入院されて来ていた。インフルエンザでは無いとゆ〜事だった。ただ、結構インテリジェンスの高い患者さんは、若い看護師がドン引きする、または苦手とする(笑)別に私も得意ではナイけど、そ〜ゆ〜患者さんはボロが出る前に、丁寧な対応を心掛けなるべく早めに病室を離れる(爆死)医療の専門知識はあっても、インテリジェンスが低いと、看護師は結構ナメられるしバカにされる。これは治療上非常にやりにくい。また、そのような患者さんは大概個室で気楽に静かに過ごしたがる。

某大学准教授の患者さんは、熱が高かったので24時間点滴を行っていたので、夜中に2回点滴を新しいものに繋ぎ変えなければならなかった。夜中の0時頃、私が真っ暗な病室に新しい次の点滴を持って、ペンライトでこっそり抜き足差し足忍び足で病室に入った。患者さんを起こさないよ〜につま先歩きをしながらペンライトで点滴台を照らそうと思ったその時・・・・・・・・・・。
点滴台の傍のテーブルに、見慣れたモノ発見・・・・・(驚愕)
白地に赤のビニール袋。私も何枚も持っているビニール袋。これは・・・もしや・・・カワイ楽器のビニール袋・・・・・?????
と、そのテーブルの上に、これも見慣れたブルーの本。このブルーは、もしや・・・・・。と思い、ペンライトでテーブルの上を照らした。そこには、見慣れたブルーのドイツ製高級楽譜♪
ベーレンライター社、バッハ、クリスマス・オラトリオの、横長の楽譜。横長の楽譜、という事は、即ちオルガン譜?????
と思ったが、患者さんが寝てる側で楽譜をコッソリ開くワケにはいかない(猛爆)とゆ〜事で、疑惑を持ちながらも病室から退散。
休憩時間2時間も、気になって眠れなかった(爆死)

次の朝、起床時間より少し早めに、大学准教授の患者さんの病室に検温に行った(超苦笑)熱を測ったり血圧を測ったりしながら、勇気を出して質問!!!!!

(私)「あの〜・・・、一つ質問しても宜しいでしょうか???」
(患者さん)「どうぞ???」
(私)「あの〜・・・、テーブルの上のベーレンライターのバッハのクリスマス・オラトリオの楽譜なんですけど・・・・・、何か演奏されていらっしゃるんですか???」
(患者さん)「!!!お詳しいですね〜!!!」

とゆ〜事で、よくよくお話を伺ったら、芸大の声楽科を卒業したテノールの方で、その後ドイツに留学して宗教音楽&教会音楽を勉強されて、現在某大学で指揮とオルガンを演奏されていらっしゃるという事だった。ど〜りでベーレンライターだし・・・・・・(核爆)
特に、この時期はミサ曲関連の演奏会が多く、はっきり言って入院している場合では無いらしい。しかも、今休んでいると、大学での書類関係の仕事が溜まりまくるそうだ(苦笑)先日、日本では珍しいハイドンのミサ曲を演奏されたとの事。バッハはかなり難しいので、私も2曲くらいしか歌った事が無い事など、朝も早く5時半から、クラシック音楽談義(核爆)
その大学准教授の先生が仰っていた事。私が、日本人はモーツァルトが好きな人多いですよね〜と話すと・・・、

「あのね!!!モーツァルト、はっきり言ってヘンですよ!!!私が教会音楽や宗教音楽を勉強していて、モーツァルトの初期のミサ曲なんて、何でこんなトンでも無い曲作ったんだあぁ???という曲が実に多いです!!!しかも、モーツァルトのアマデウスっていう映画知ってます???モーツァルトって、あの映画はちょっとエゲツ無いですけど、ほぼあの映画に近い人物なんですよ!!!ああいう下品な人間だったっていう証拠は、手紙や書簡に非常に多く残されているんです!!!モーツァルト、絶対ヘンですよ!!!!!」
力説する先生に私は、
「私、モーツァルトすっごい苦手なんですよおぉ〜〜〜〜〜!!!!!日本人ってモーツァルト大好きだから、ホント肩身狭いんですよねえぇ〜〜〜・・・。お話伺えて、ホント良かったですうぅ〜〜〜(滝涙)」

朝イチ、モーツァルトの人間性について大いに語る、高熱の大学准教の先生約1名・・・・・・・・・・(笑)

こ〜ゆ〜シチュエーションがあると、このクソ忙しい看護師とゆ〜仕事も、案外悪く無いかも♪と思える。
殆ど休めなかったけど、結構楽しい夜勤だったなあぁ♪

5線の上。

私は、ソプラノである。でも、高音域を歌うのが好きでは無い。好きでは無いとゆ〜よりも、嫌いに近い。
では、高音域が出無いのか?と聞かれると、意外とそうでも無い。今年3月のウィーンでのN先生とM先生のレッスンでの発声練習では、3点Esまで出たらしい。M先生は、

「まだまだ上は出そうよね〜。あと3〜4音は出そう。魔笛の夜の女王と同じ音域は出せるようになるわよ♪」

と言われた。実は、3年くらい前に、ハリセン先生にも同じ事を指摘された事があったのだが、その時はちっとも本気にしてなかった。無論、ウィーンでM先生に上記のように指摘された時も、ドン引き終了。

では、何故高音域を歌うのが好きでは無いのか。
一つは、声楽を始めた当初は、自分の声の性質上自分はメゾソプラノかアルトだと考えていたからである。実際に、低音域も結構出る。Dまでは、出る。ウィーンのレッスンでの発声練習でも下のDまで出て、N先生が多少ビックリしていた。それに、高音域を歌う練習をするよりも低音域を歌う練習をした方が、喉の疲労が少ないと感じていたからだ。無論、声楽の勉強を始めたばかりの頃は発声が出来ていなかったのでそう感じただけという事なのではあるが。それと、これは演奏会に来てくれた友人から言われた事なのだけど、

「そんなに高い音を歌っているようには聴こえない」

と言われた事がある。私の声質では、私よりも声質が細いソプラノが歌う方が高音を出しているように聴こえるらしい。でも、これは実際問題自分自身でも錯覚してしまう部分でもある。特にこの問題に関して強く感じるのはモーツァルトの曲を歌っている時だ。高音域を歌っている自分の声が「美しいソプラノの高音域」というイメージから非常に掛け離れていると感じてしまう。ソプラノの場合、日本人は民族的に声帯が細い割合が高い。とあるオペラ演奏団体のソプラノの声質を、ネットで表記されているものを基準にしてデータを取った事があるのだが、イタリア式分類で出演ソプラノの約7割がコロラトゥーラ、レジェロ、リリコ・レジェロだった。日本人ソプラノは概して細めのソプラノが多い人種的傾向性は否定出来ない。つまり、理想的な綺麗な美しい声のソプラノに対する概念が上記の3種のソプラノとしてインプットされている傾向にある。だから、私自身ど〜も自分の声が「美しいソプラノの高音域」とは思えないのである。これは、今も変わらない認識である。実際に「美しい声」だの「綺麗な声」だのと言って貰った事は殆ど無い。ミルヒー先生ですら、

「あなたねえぇ、いい声してるのよ!!!」

と言われた事はあるのだが(超苦笑)これは、日本人のソプラノとして非常に厳しい現実である。自分で歌っていて美しいとも綺麗だとも思えない高音域なら、無理して歌いたくなんざ無い。しかも、声楽を勉強し始めの頃なんか、高音域がきちんと出せる筈も無い。大概「叫び声」「悲鳴」に近いものがある。だからと言って長時間高音域の練習は出来ないし、毎日声楽の勉強やら練習が出来る訳でも無いので、自然と高音域の曲は避ける傾向となってしまう。そうすると、高音域を歌う事が恐怖になってしまう。イタリア古典歌曲だってオペラアリアだって、無理して高音域の多い華やかな曲なんざ、わざわざ私が歌わなくたっていいじゃないか、高音域出すのが得意なソプラノが歌えばいいじゃないか、と考えるようになった。実際、声楽を始めて1年目はモーツァルト「フィガロの結婚」のケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」を非常に熱心に楽しく勉強した。特に、テレサ・ベルガンサの録音は何百回聴いたか解らないくらいだ。
中低音域の発声だって、決して正しい発声では無いのにも拘わらず、高音域を歌うよりは自分で歌っていて歌い易いし自然に聴こえる。でも、幾ら頑張って練習してもレッスンしても、叫び声や悲鳴にしか思えない自分の高音域の声を段々好きになれなくなって来る、出るだけは出るが歌っていても気分不快、そして歌いたく無くなるし躊躇する。そんな悪循環を繰り返して来た。実際、私はレッスンを受ける先生を替わる度に、

「私は本当は、メゾソプラノかアルトじゃないんでしょうか?」

と先生方に尋ね回って来た。今年ウィーンでM先生に、

「あなた、ホントはメゾソプラノなんじゃないの?だって、シューベルトを中声用で歌ってるし」

と言われた時には、一縷の望みに賭けたのだが、N先生から、

「あなたはソプラノです」

と言われた時は、死刑宣告のように超ガッカリした。嗚呼、私の憧れのジェシー・ノーマンだってメゾソプラノからソプラノに転向したのに。大体にして、日本人なんざ、ヴィオレッタは少女性だの蝶々夫人は可憐だの言いたい放題。しかも、コロラトゥーラやレジェロやスーブレッドが、ベートーベンやらウェーバーやらワーグナーやらヴェルディやらプッチーニのドラマティックな役を散々歌いまくり、異論を唱えると「悪口を言うな!」と怒鳴られる始末(超呆)スーブレッドがワーグナー歌ってる国は、日本だけじゃあ無いのか???呆れ果ててグウの根も出無い。

ドイツのソプラノ歌手、クリスティーネ・シェーファーが数年前に来日して飯田橋のトッパン・ホールでリサイタルを開いた。シェーファーはフィッシャー・ディースカウやオジェーに師事した、今現在ヨーロッパでも売れ筋の「スーブレッド」ソプラノだが、飯田橋のトッパン・ホールのリサイタルで、ワーグナー「ヴェーゼンドンクの5つの歌」をこっそり歌ってドイツに帰って行った。当時トッパン・ホールに問い合わせたが、録音も映像も残されていない、という回答だった。シェーファーはザルツブルグ音楽祭でもモーツァルト「ドン・ジョバンニ」のドンナ・アンナを一度歌っているが、暫くシーズン中ヨーロッパの歌劇場に姿を見せないなと思っていたら、シェーファーはヴェルディ「リゴレット」のジルダや、ドニゼッティ「ルチア」を引っ提げて欧州の歌劇場に舞い戻っていた。シェーファーは自身のDVDで「ワーグナーの音楽に非常に興味がある」と述べていたのだが、シェーファーが日本という東洋の島国の片隅でスーブレッドでありながら、こっそりとひっそりとワーグナーを歌わなければならなかった無念さが少しだけ理解できるような気がする。

私が高音域を歌うまでのプロセスを相当に限定せざるを得なかった事は非常に大きな発声的成長の阻害要因となった。まず、声楽の勉強を始めてから、5線の上の音を歌わなければならない曲を演奏会に選ぶようになったのは、声楽の勉強を始めてから2年以上経過してからだった。「みっともない声」を自己認識しているにも拘わらず、高音域が出るというだけで音域の高い曲を自慢気に歌うような事を間違ってもしたいとは思わない程度の「恥」は知っている。声楽の勉強を始めてからの約2年は、最高音が5線の中に納まる曲を選んで歌っていた。でも、勿論レッスンでは高音域を歌わなければならない曲も練習・レッスンしていた事は確かだ。でも、自分自身が納得出来る高音域を絶対に出せない事が解っているのに、知らないフリして歌うなどという詐欺紛いの歌唱は、有り得ない話だった。

高音域を歌う事は、資質的問題よりも遥かに方法論的技術を内包しているように考える。そして、高音域をより美しく歌うという事は、声質の占める問題が非常に重要な「オプション」となるように考える。特に日本に於いては。だからこそ、私はソプラノとしての高音域の高さそのものには余り重点を置かない。
方法論とは、高音域を歌うために高音域の曲を練習し歌うのか、高音域を出せるようになるまでレッスンだけで歌い演奏会本番曲は発声可能音域内の曲を歌うに留めるのか、という選択肢がメジャーと考える。無論、アマチュアであればそのどちらを選択する余地は大いに存在すると考えている。
恐怖心の克服方法と似ている。徐々に慣れるか、荒療治をするか。それは、高音域を歌わなくてはならない状況の、ソプラノ歌手個人の性格や性質や声質や特性に依拠する事柄であり、非常に個別性が高い事項であると考えられるため、一慨にインスタントな方法は存在しない。
ソプラノに拘わらず、「声」は人間の体の諸器官の運動資質と運動機能の差にも非常に左右される事は、今更言うまでも無い。身長、体重、身長に対する胸郭の割合、横隔膜・内肋間筋・外肋間筋・腓腹筋・下腿筋肉・骨格に非常に左右されるし、やはり声帯のサイズに左右される可能性は否めない。

しかし、これだけははっきり言っておくが、逆は存在しない。
「あなたの声帯のサイズは●●で、横隔膜や肋間筋の可動域は××だから、あなたはこういう声質ですよ」
的な勘違い路線に関しては、常識や知性を疑わざるを得ない。

方法論の選択は自由。後は自分自身が何を選ぶか、による。恐怖心を克服する事・声を出す事に集中する事。先に出せる高音域を設定して曲を選択するのか・高音域の曲を決めて自分自身の高音域を鍛えて行くのか。

アマチュアの皆様、自分の自由な意思選択による自己決定という責任に於いて、声楽の勉強をしていかれる事を私は望みます♪

どう歌う?クレオパトラ。

今日は、連続夜勤の中休み。
休日の割に午前中から忙しく、ゆっくり寝呆けているヒマも無かった(怒)
郵便局に行ったり、注文していたメモリースティックのアダプタを取りに行ったり。

その後は午後から3時間のスタジオ練習。今日は前回のオクレール先生とのピアノ合わせで苦言を呈された部分を重点的に練習しなければならなかった。「リナルド」アルミレーナのアリアから。レチタティーヴォを丁寧にお浚いする。イタリア語のアクセントの通りにレチタティーヴォを歌う事に慣れるのは、結構難しい。この曲は、イタリア古典歌曲にも分類されているので、どうしても歌曲としての認識で歌ってしまいがちで、録音もイタリア古典歌曲として録音されたものを聴く事が殆どだった。「リナルド」を全幕通してオペラの映像を観たり全幕通しての録音を聴く事は、まず無い。私が所有している録音の他に、不本意に押しつけられた全曲録音のCDはあるにはあるが、全く聴く気も無いので、結局イタリア古典歌曲集の録音しか聴いていない。しかし、この曲を勉強し始めてから既に10年経過しているので、自分自身の努力で譜読みを丁寧に行って行こうと決心した。録音は、また後から探せば良い。取り敢えず、オクレール先生に指摘されたフレーズ、ピアノからクレッシェンドしてスフォルツァンドで歌うフレーズに時間を掛けて繰り返し練習。たった2小節に30分以上掛けてようやく少しだけ掴んだようなカンジ。小節の歌い出しを極力ピアノで歌う事と、クレッシェンドを急激にしないでフォルテの度合いを緩やかに取る事。このやり方で良いのかどうか、次のピアノ合わせでミルヒー先生やオクレール先生に確認する以外に方法は無い。

その他は、クレオパトラのレチタティーヴォをメインに練習を行った。
先日、2005年グラインドボーンのDVDを観てからは、クレオパトラの歌い方・演じ方に関して、非常に脳味噌を酷使しなければならなくなってしまった。ダニエル・ド・ニースという個人の歌手はど〜でも良いし問題では無い。ド・ニースがクレオパトラをどう解釈しどう歌おうが、私には全く関わりが無い事だ。問題は、全く参考にならないダニエル・ド・ニースのクレオパトラを観た後で、自分自身がクレオパトラをどのように歌って行くのかというベクトルなりスタンスなりを、自分自身どう決断し確立して行くのか、という事である。有名歌手の歌唱に惑わされたり引き摺られたり感化されないためには、自分自身の歌う役柄に対する徹底的且つ厳密な分析が絶対必要不可欠であり、尚且つ簡単に安易に他人に耳を委ねない厳しい姿勢が必要である。
先日オクレール先生とのピアノ合わせでオクレール先生から最も指摘されたレチタティーヴォ。喋っていないと散々注意された。何故レチタティーヴォで喋れないのか。散々考えて、ようやく見つけた答え。私がクレオパトラになって歌っていなかったからだと、ようやく気が付いた。これは、3年近く前に、川崎市内のとある小さなホールの20分枠の一般募集コンサートで、ヘンデルのオペラアリアを5曲歌った時の事だった。ミルヒー先生のレッスン中、良く怒られた事・繰り返し指摘された事が一つあった。ミルヒー先生いわく、

「このアリアは、クレオパトラのアリアなのよ!!!いい???クレオパトラよ!!!エジプトの女王なのよ!!!普段のあなたのまんまで歌っちゃ駄目なのよ!!!」

と、耳にタコが10コ位出来る程散々指摘され続けたのであった。今回も要するにそういう事だ。じっくり考えた結果、レッスンや練習で自分自身をクレオパトラだと思って歌った事は無かった(自爆)どのフレーズをどう歌うか、とか低音をどう出すか、高音をどう出すか、ロングブレスをどう凌ぐか、とかいう問題には血道を上げ発声には非常に神経を使ったが、自分はクレオパトラなんだからこう歌うのよ〜♪みたいな歌唱は、皆無だった。
ヤバい(爆死)これは、超ヤバい(核爆)早速今日から、自分はクレオパトラなんだとゆ〜自覚と認識を持って歌う事を念頭に置く練習を開始した(遅っ)
ただ、ここで問題になるのは、先にも述べた通り自分がクレオパトラをどう捉えどう歌うのか、という事。これに関しては私自身の持論もある。
まず、クレオパトラがキャバ嬢では、困る。おキャンなクレオパトラを歌うつもりもそのように解釈するつもりも、毛頭無い。クレオパトラは、一人の女性である遥か以前に、女王であり策略・知略・謀略に長けた野心家であり、男を手玉に取る妖艶さを持った、エジプト随一の誇り高き女王なのである。とゆ〜事で、ダニエル・ド・ニースの小娘的キャバ嬢路線は、却下。そう考えると、私が演じ歌うべきクレオパトラ像が少しづつ見えて来る。しかも、ただ単に、クレオパトラのオペラアリア集を歌うべきでは無く「エジプトのジュリアス・シーザー」というオペラ全曲の中のクレオパトラという役を歌い演じるという視点に立てば、おのずと見えてくる一つの非常に重要な問題点が浮き彫りにされる。このヘンデルの「エジプトのジュリアス・シーザー」というオペラは、タイトルロールはシーザーという男役だが、ヒロインが二人存在する。一人は、ポンペイウスの妻でセストの母で夫をエジプト王トロメーオに殺されエジプト将軍アキッラに情婦同然に差し出されそうになりエジプト王トロメーオにも慰み者の愛人と扱われそうになるコルネーリア。そして、エジプト王トロメーオの姉であり妻であるが、腑甲斐無いトロメーオに嫌気がさして不仲のため、自分自身がエジプト女王に君臨する事を野望するクレオパトラである。2005年のグラインドボーンのコルネーリア役パトリシア・バートンと、クレオパトラ役ダニエル・ド・ニースには、余りにも明らかな声の資質とキャリアに多大な差が在り過ぎた。しかし、このオペラの根源的且つ基本的な概念としては、コルネーリアとクレオパトラは、声質としては乖離的分類はあるものの、役柄の存在的意義としては、対極に存在しながらも対等である筈なのである。それを示すのが、ウィントン・ディーン著「ヘンデル・オペラ・セリアの世界」春秋社出版の中で、非常に慎重かつ丁寧に著者によって分析・供述されている。
つまり、私自身は、ウィーン基準ではリリコ・ソプラノだが、メゾソプラノやコントラルトのコルネーリアに決して勝るとも劣らないクレオパトラを歌わなければならない。これは、至難の業だ。美人のキャバ嬢のセンは、有り得ない。どこぞのソプラノ歌手とも違うし(笑)
自分自身の声の太さを最大限に活かしながらも決して重くならず、尚且つドラマティックさを失わず余裕の軽やかさと自尊心丸出しの狡猾さ。これが私の考えるクレオパトラ(超苦笑)
リサイタル本番までカウントダウンとなったが、今自分が考えるクレオパトラ像を全て演じる事は可能では無いだろう。しかし、一歩でも、半歩でも、近づく努力と野望は捨てるべきでは無い。

最も大切な事は、コルネーリアと対極を成しながらも対等の、声の太さを最大限に活かしたドラマティックさと余裕の軽やかな声の響きでプライドの塊の狡猾で魅惑的なエジプト女王クレオパトラ、をダイエットの体型と化粧の濃さと親から貰った容姿では無く、自分の持てる「声」だけで演じなくてはならいという事である(核爆)

さあ、大変だあぁ。

明日も休日なので、自己練習、自己練習♪

今日は何の日。

昨日は結構多忙な夜勤明け。重度の認知症で骨折の患者さんが夜一睡もせずに大騒ぎ&整形手術の患者さん&内科で夜中から急激に重症になった患者さんetc。一休みしてから、よ〜やっとHMVに注文したヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のDVDを観た。2005年グラインドボーン音楽祭の演奏。最近、欧米で人気のソプラノ歌手、ダニエル・ド・ニースがクレオパトラを歌ってる。去年くらいだったか、ダニエル・ド・ニースが日本でモーツァルト「フィガロの結婚」のスザンナを歌ってた。今日はミルヒー先生&オクレール先生合同ピアノ合わせだったので、何としてもレッスン前にDVDを観ておかなければならない、と思い眠気でボケた頭にワインで喝を入れながら観た。
感想。ジュリオ・チェーザレ役のサラ・コノリー(MS)と、コルネーリア役のパトリシア・バートン(MS)の圧巻的歌唱と演技力が余りにも卓越していた。感動して、部屋で一人で大喝采のブラヴォ〜〜〜!!!連発(爆)サラ・コノリーはイギリスを代表するヘンデル・メゾ。その双璧にあるパトリシア・バートンは、何とワーグナーの「ニーベルングの指環」でフロースヒルデやエルダを歌う、ひょっとしてコントラルト???系メゾ。二人とも深く温かい声と重厚なバロックを軽やかなテクニックで、熱演するまさに「バロックの至宝」そこに、二人のカウンターテナー、トロメーオ役のクリストフ・デュモーとニレーノ役のラシッド・ベン・アブデスラムが、非常に伸びやかなカウンターテナーの美声とハイ・テクニックを聴かせてくれている。やはり、カウンターテナーが登場すると、バロックとしての実感が湧く演奏になるものなのかと思わせるくらい、二人とも素晴らしいカウンターテナーだった。
で、一番物足りなく浅く聴こえたのが、セスト役のアンゲリカ・キルヒシュラーガーとクレオパトラ役のダニエル・ド・ニース。
でも、これはある意味仕方が無いとゆ〜か、想定内事項だろうな。だって、ワーグナー歌手のバートンと一緒に歌ったら、幾ら今大人気のキルヒシュラーガーと言えど色褪せて聴こえてしまう。セストの怒りや復讐心を感情的に表現してはいたが、何にせよコノリーやバートンと一緒に歌ったら、やっぱ子役なのは言うに及ばず。
しかも、クレオパトラのド・ニースに関して言えば、クレオパトラの威厳とか妖艶さとか狡猾さとか策略家とか、そ〜いった面はお世辞にも感じる事は不可能だった。ド・ニースに対しての私の感想は「キャバ嬢」(核爆)しかもド・ニースの声は軽めのリリコだが多少太めだから、クレオパトラ役に合っていないという事も無い筈なのだが。ド・ニースのクレオパトラは、クレオパトラをどう歌いどう表現するかというよりも、ド・ニースのキャラクターのミニマムワールドのクレオパトラだったとしか思えないとゆ〜か、聴こえなかったとゆ〜か。
とゆ〜事で、クレオパトラの勉強は、今まで通りタチアナ・トロヤノスで勉強する事にした。
しかし、考えてみれば、コノリーとバートンの重量級の声とデュモーとアブデスラムの伸びやかでテクニカルなカウンターテナーのキャステングでは、ド・ニースとキルヒシュラーガーの軽めの配役でなければ、随分と重苦しい暑苦しいヘンデルになってしまうので、キャスティングのバランスとしては宜しいのでは無いのでしょうか。

で、今日朝一番で寝呆けている時にミルヒー先生からメールがあった。
「風邪をひいてしまったので、今日のレッスンはお休みさせてください」
!!!!!こりゃ大変だ〜〜〜(苦笑)取り敢えずオクレール先生に急いでメールしてこの件を伝えた。最初、今日のレッスン場所は世田谷区内だったのだがミルヒー先生が来られなくなったので、急遽オクレール先生のお仕事の御都合に合わせてスタジオを渋谷区内に変更。慌ててネットでスタジオを検索、ど〜にかこ〜にかピアノが置いてあるスタジオを見つけた。オクレール先生にメールでスタジオの場所をお知らせしようと思ったのだが、途中で手に携帯持ったまま、爆睡(自爆)目が覚めたら、近くのスタジオに発声練習に行く30分前に、慌てて覚醒。泡食って自宅を飛び出した。近くのスタジオでは、ホントに発声練習だけ。だって、オクレール先生とのピアノ合わせは、マジで休憩無しで2時間ぶっ通しで歌わなければならないから(爆死)まあ、ヘンデル9曲歌うのだから、仕方が無い。

渋谷のスタジオに到着して、すぐピアノ合わせ開始。やっぱ、私はスロースターターなもんで最初の一声は結構重めになってしまう。それでも1曲目の「アルチーナ」のアリアは前回よりはそこそこ。2曲目「リナルド」のリナルドのアリアも、以前よりもスピードアップしてテンポに乗って何とか歌う事が出来た。しかし、オクレール先生的には、
「もう少しテンポが前に進んでもいいと思うんだけど、これが限界???」
と言われた。この曲、楽譜の指示がLargoなのだが、ヘンデル9曲も歌うし、プログラム自体がマニアックなのでオクレール先生から指摘されたオーダーは早めのAndante(苦笑)それでも今回は普通のAndanteくらいに歌えるようには練習して来たが、やはりもう少し早いテンポに出来るならその方が良いのでは、というオクレール先生の御判断だった。テンポが速いと、ダ・カーポで繰り返し歌う時の装飾音の入れ方が困難になって来る。私にはまだそこまでのテクニックは無い・・・・・と・・・思う(爆死)でも、次回のピアノ合わせまでには善処して来るとゆ〜事で。
今日一番躓いたのがアルミレーナのアリア「私を泣かせてください」中間部の下降音形をピアノからクレッシェンドで最後スフォルツァンドで歌う所。スフォルツァンドで歌うF♯が声が当たっていない事と、ブレスが続かず声がブレてしまう事で、フレーズが尻切れトンボに聴こえてしまうとの指摘を受けた。オクレール先生から指摘されたが、具体的に何処をどのように変えれば良いのか自分ではさっぱりチンプンカンプンだった。
「解らないなら、今の通りでいいよ」
とオクレール先生も半ば諦め気味に言われたが、ここで私は諦める程落ちぶれてはいない。私は指摘されてもそれを修正して自分の歌唱に確実に活かせるようになるのに、他人よりも時間がかかる。要するに、もの覚えが悪い。だから、この部分は一度持ちかえって少し時間を掛けて練習しないと歌えないので、今日は保留にして貰った。改めて「私を泣かせてください」という曲の難しさを思い知った。尤も、アルトの低声用のキーで歌っているので、余計に歌う事に難儀しているのは間違い無い(凹)

逆に「セルセ」のアリアは、コメント無し(爆死)

とゆ〜事で、早速クレオパトラのアリアへ。
オクレール先生曰く、クレオパトラに限らず、アルミレーナのアリアもそうなのだが、
「レチタティーヴォは、もっと喋って。自由に歌っても良いけど、きちんと楽譜のインテンポの中で自由に歌って。イタリア語のアクセントで言葉のリズムをきちんと取って歌う事。でないと、平坦に聴こえるし、レチタティーヴォに聴こえない」
・・・・・・・・・・。自分でも解ってるつもりなんだけど、出来て無いって事は解って無いって事か(溜息)
もう一つ細かく指摘された事が、やはりアジリダの音程。特に半音下がったり上がったりする音が若干低めに聴こえてしまう。もともと下降音形でポジションが下がりやすい事もあるので、テンポの速いアジリダは特に慎重に確実に一つ一つ音を取っていかなければならい事は、解ってるんだけど(超苦笑)オクレール先生から、
「歌いだしの音が中低音だとポジションが低いから、高音に移行する時に苦しいんだよ。それに頭部の開き方がまだまだ足りない。それで良く喉を壊さないでこんな難しい曲歌ってるよねえぇ〜〜〜〜〜・・・・・(呆)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
褒められているのか、貶されているのか・・・・・(笑)
でも、クレオパトラのアリア最後の2曲は、殆どお小言を頂く事無く、無事2度目のピアノ合わせ終了♪正味2時間、歌いっぱなし〜(爆死)
流石に疲れたが、こんな物覚えの悪い私に付きあって下さっているオクレール先生の方が余程大変なんだよなあぁ・・・・・(滝涙)オクレール先生から、
「いつも休日って夜勤の次の日なの???普通の休みって取れないの???」
と聞かれたが、夜勤が多い私の場合、休日は大概夜勤の次の日が殆どだ。運良く2連休があったとしても、先生方のスケジュールに合うとは限らない。
取り敢えず、帰宅したら今月中にもう一度ピアノ合わせが出来るようにメールする事で、渋谷駅でお別れした。

今日は、渋谷のスタジオに行く前に、ビミョ〜に少し時間があったので、表参道のカワイに行った。本当は、フンメルの声楽曲の楽譜を探す目的だったのだが結局見つからず。
でも、ひっじょ〜〜〜に大きな掘り出し物にありつく事が出来た!!!!!(号泣)
まず新刊だと思うのだが「フィッシャー=ディースカウ シューマンの歌曲をたどって」白水社出版。来年はシューマンのメモリアル・イヤーなのでシューマンの歌曲のリサイタルを計画、既に選曲も全て済ませている。だが、以前にこのブログに書いたが、シューマンの歌曲の専門的学術書が日本に存在しない。そこいら辺のありふれたドイツ歌曲の解説書には、来年私が歌うシューマンの歌曲の殆ど、解説は載ってやしない。今日たまたま表参道のカワイに足を伸ばしてこの本を見つけた。曲目検索のページを見たら私が歌うシューマンの歌曲で、他のどの本にもCDの解説書にも載っていない曲の解説が、短いながらもあった!!!!!当然、お買い上げえぇ〜〜〜〜〜・・・・・〆て¥6600・・・・・・・・・・(滝汗)・・・・・・・・・・無言。
それと、私が必ず購読しているオペラ雑誌がある。
ONTOMO MOOK「GRAND OPERA」である。この雑誌は季刊誌なので年に4回くらいしか発行されない。見つけたらすぐに購入する。大概、世界の注目の音楽祭とか、今が旬で人気のオペラ歌手とかの特集記事が多いのだが、私がこの雑誌を購入するのには、全く別の理由が存在する。
この雑誌の巻末に「世界の歌劇場シーズン・プログラム」という項目があるのだ。これは、今現在シーズンの世界各地の歌劇場の演目と指揮・演出・配役がざっと書かれている。私は、まるで競馬新聞を読むオヤジのように蛍光ペンを持ちながらこの雑誌を読み耽る。
理由は、まず現シーズンで、どの歌手がどの演目のどの役を演じているのかをチェックする為だ。特に、私が好きな歌手・注目している歌手・好きでは無いが人気のある歌手・ベテランの名歌手、これらのオペラ歌手達の現在の動向を知る上で、非常に有効に活用出来るからだ。
例えば、ネトレプコが、キルヒシュラーガーが、ド・ニースが、デセイが、チョーフィが、ゲオルギューが、メイが、今どの歌劇場でどの役を歌っているのかに興味は無い(きっぱり)
ここで一番私が重要視している事は、オペラ歌手達の動向である。この雑誌を続けて読んでいると、歌手の動向が顕著に解る。
あらゆる有名大歌劇場で出ずっぱりの歌手、大劇場で声質に関係なく手当たり次第ヒロイン役を歌いまくる歌手、持ち役だけを地道に歌う歌手、近・現代曲に取り組む歌手、暫く見かけないと思ったら新しい持ち役を歌っている歌手、大劇場でしか歌わない歌手、劇場の大小は無関係に持ち役を歌い続ける歌手、etc。
これは、歌手の人間性や歌手としてのストラテジー、歌手の勤勉さや開拓精神の有無を判断する上での非常に貴重な指針にもなり得る。
まあ、例に挙げたのはソプラノ歌手だけだが、無論もっと私が大好きで注目・期待する歌手の動向を主にチェックしている。
それに、来年3月にウィーンにレッスンに再渡欧する事がほぼ確実になったので、時期的にウィーンの幾つかの歌劇場でどのオペラを観るか、の判断材料にもなる。

それと、もう一つ雑誌を購入したのだが、これはまた後日ブログにアップしようと思う。



そして、夜23時に帰宅。
41歳の誕生日に気が付いたのは、夜中過ぎてからだった・・・・・・・・・・(核爆)


私のやらなければならないこと。

最近、とあるアマチュアのソプラノの方とメールのやりとりをしている。彼女はまだ声楽の勉強を始めてから短いが、私のブログを良く参考にしてくださっているとの事。やはり、私と同じく声楽の他にやらなければならない事がある方で、月に数度のレッスンを受けられている。

アマチュアの歌い手は、迷う。先生に教わった事をどのようにして自分の歌に活かして行って良いのか。
先生方の言っている事は、頭では解るがどう実践して良いのか最初は殆どピンと来ない。きちんと体を支えようと思えば余計な部分にまで力が入り、余分な力を抜こうとすれば肝心な体の支えが抜けてしまう。
慣れないイタリア語やドイツ語を辞書を調べながら発音記号を読み、CDで聴いた録音で耳で覚えた曲を頼りに楽譜を読む作業に神経を使い果たす。楽譜に書かれた指示記号を、メトロノームで幾通りも変えながら譜読みを繰り返す。
何度も何度も先生から指摘や注意、たまにはお叱りも受けるが、自分が出したいと思う声の程に、自分の体は全く言う事を聞いてはくれない。たまにレッスンで少し上手く歌えたと思っても、演奏会本番では緊張で震えて力が入らない。歌い出しで失敗すると、どんどん立ち直る事が出来なくなり、あっと言う間に本番は終わってしまう。歌えなかった事と不十分な練習の後悔だけが残る。
でも、歌だけ勉強している時間はそうそうは無い。でも、歌いたい曲だけは、どんどん増えて行く。
そうこうしていると、音大生が4年でやる事を倍以上の時間をかけてやっとの事で一つ、二つ学び取る。

私が、アマチュアであるにも拘わらず、ヴェルディのオペラアリアやシューベルトのバラードに着手する事が出来、尚且つウィーンでのレッスンを受けられる事になったのは、本当にただの幸運だったと思う。歌が好きでずっとクラシックの声楽の勉強を続けて来てウィーンに行くまでに、合唱を始めた頃から数えたら、16年が経過した。何人も先生を替わり、何度も同じ曲を勉強し、途中本当に辛い事もあったが、それでも決して歌う事を諦めない幸運もあった。
一つが、ジェシー・ノーマンと身近で握手出来た事だった。絶対に歌う事は諦めない辞めないと、誓った。

私が今、声楽の勉強を始められた方とこうして交流出来て、本当に嬉しく思う。
私が声楽を始めた時に、プロや先生方に教えられても理解出来ず実践出来ずに苦しんで迷って出来なかった事を、少しでも伝えられたらと思う。
プロ独特の「音楽用語」では無く、アマチュアにも理解出来る言葉で、困った時にどうしたら良いか、声が出ない時にどのように体を使ったら良いのか、何が足りなくて声が出ないのか、どういう練習が効果的なのか、短い歌曲1曲を歌うために何に留意してどのような事に配慮するべきなのか、大曲を歌う事のためにはどのような事を心掛けて勉強するべきなのか。
アマチュアに解る言語で、私と同じアマチュアに伝えて行きたいと思う。

歌い手は単に曲を歌うだけでは無い。
作曲家の生命と足跡を歌うのだと思う。
曲を通して楽譜を通して、
バッハやヘンデルやモーツァルトやベートーベンやシューマンやブラームスやワーグナーや、
ベッリーニやヴェルディやプッチーニの、生命と足跡を、歌う。
多くの作曲家の生命と足跡を伝えるために歌い手に必要なものは、たった一つ「声」だけ。
歌いたいと欲する声、伝えたいと思う声。
何処で歌うのか、何を歌うのか、どんな声なのか、はそれ程重要では無いのだとも、思う。
歌いたいと思うあなたの声を聴きたいと思う人が、そこに一人でもいれば、ただ一人のために喜んで歌う。
それが、歌を愛して歌う人間にとって、最も大切で幸福な事であるという事を、歌を始められたばかりの方に伝えられたら、そしてそのお手伝いが出来たら、それで私の「歌う人生」は十二分に幸福なものであったと思う事が出来ると思っている。

今、私が伝えたり遺したり出来る事は何なのか、一生懸命考えている。


声の出し過ぎ

今日は久々の連休2日目。今日はスタジオ3時間取れた。しかし、日頃の蓄積疲労か、2度寝してしまいスタジオのレンタル時間ギリに目が覚めてしまい大慌て。大急ぎでスタジオに駆け付けた。
天気が変だったせいか、矢鱈と痰が増えた。でも、6日のピアノ合わせまで時間が無いので、練習練習♪

スタジオに到着して、いつものように発声練習をして、いつものようにヘンデルのオペラアリア9曲歌った。9曲歌い終わって・・・・・声が掠れ始めた。ヤバい。マジで声の出し過ぎだ。練習直前まで寝てたせいか、発声練習してもまだ体が寝ているカンジ。声を押して出していたようだ。
スタジオは音響も良くない。アップライトのピアノがあるから良く利用しているのだが、基本的に響きは良くない。自分の声の響きの確認の目安が、20畳程あるスタジオのピアノの反対側にあるドラムセットのドラムの表面が私の声の響きで振動する音。でも、これでは本当に声の出し過ぎになってしまうと、反省した。
クレオパトラだけでなく、1曲目「アルチーナ」のオベルトのアリアの声量から考え直さなければならないなあぁ・・・。やっぱり、多少疲労で体が動かないか、喉の不調で無理は避けてる時の方が、発声としては良いのかも知れない。もともと声量はある方なので、声は出せば出すだけ出てしまう。しかも、やっぱりクレオパトラは気持ち的に力が入り過ぎてしまう。良くない癖だな、と不安になる。

それでも、前半4曲のオベルト・リナルド・アルミレーナ・セルセのアリアは大分余計な力が入らなくなって来た。クレオパトラもこれ位の慎重さと冷静さが必要不可欠だなあぁ・・・(溜息)
ギャラリーカフェが空いてる時には、なるべく本番会場のギャラリーカフェで声出ししないと。声帯に余計な負荷をかけてしまっては、リサイタル本番もそうだが、ウィーンでのレッスンにもひびく。今日、ウィーンのM先生からメールがあった。来年のウィーン行きは3月初旬になる事が決まった。ヘンデルのリサイタルが終わってもウィーンでのレッスンのために相当練習しなければならない。休んでダラけている余裕は一刻も有り得ない。
今日は結構凹んで帰って来た。6日のピアノ合わせは、きちんとミルヒー先生と打ち合わせして来ないといけない。曲自体はほぼ暗譜も出来ているので、残すはこの声量のコントロールの問題。やはり、きちんとした音響の会場で歌い慣れていない事、自分の声の響きを把握していない事は非常に不利な事だと実感。本当にリサイタル本番直前ギリまで努力しなければ追いつかない。
でも、私は2年前にも一度、20分枠の一般募集の演奏会で、ヘンデルのオペラアリアを5曲歌った事があったのだが、2年前はゲネプロの段階でヘトヘトだった。その時の演奏会では、オベルト2曲・セルセ1曲・クレオパトラ2曲。この事を考えれば、今は9曲歌っているワケだから成長してると言えなくもない。でも、やはりこの現状は決して宜しいものでは無い。ここで妥協したトコロで良い事は一つも無いどころか、弊害しか無い。

リサイタルも2度目になる。ウィーンへの渡欧も2度目になる。勉強しなければならない曲は芋蔓式に増えて行くし、常時30曲近く抱えている。
それでも歌いたければ、勉強したければ、無い頭から智慧を絞って行くしか方法は存在しない。

忍耐忍耐。善哉善哉。

今日、ギャラリーカフェの社長とリサイタルの打ち合わせしている夢を見た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
結構キテるかも(爆死)

久しぶりの・・・

2連休〜〜〜〜〜っ!!!(号泣)

昨日は日勤が終わった後に、ヘンデルのリサイタルの楽曲解説や歌詞対訳を作成してギャラリーカフェのプロデューサーにお渡ししなければならないので、メモリースティックを購入しに出掛けた。何だかんだ買い物をしていたら夜21時近かったので、さっさと帰宅した。

今日は日曜だったのでスタジオが混んでいたので2時間しかスタジオを借りる事が出来なかったのだけど、こ〜ゆ〜時は無理せず休め、とゆ〜事なのだと解釈して2時間練習。ヘンデルのアリア9曲一通り通し練習してから一時帰宅して、パソコンや本やCDを持参してギャラリーカフェに出勤(苦笑)
今日は、プログラムやらネット掲載記事や調律や会場の配置など、プロデューサーとヘンデルのリサイタルの詳細打ち合わせ。私が夜勤が多くて中々伺えないので、今日一気に沢山の打ち合わせをする事になった(笑)
今日から11月、そろそろ真剣に気合いを入れてリサイタルの準備を始めないと間に合わん。特に、楽曲解説や歌詞対訳を作成して、リサイタルのMCで何を喋るのかきちんと整理しないといけない。ヘンデルの4作のオペラのあらすじ、作曲年代や作曲された背景、自分がンデルの曲を選択して歌う契機や、アリアに纏わるエピソードなどを、原稿を作成しないまでも頭の中に纏めておかなければならない。ギャラリーカフェに到着してから、プロデューサーと話しながらパソコンのキーを叩きながら本を読みながら、と超忙しかった(滝汗)

私が一所懸命にパソコンと格闘している間に、ギャラリーカフェの社長&プロデューサーがトンでもナイ事をして下さっていた。
何と、ギャラリーカフェの店先にある掲示板に、私のリサイタルの写真入りポスターを作っていた!!!(絶句)
前回、今年2月のベートーベン&シューベルトの初リサイタルの時に、社長がこ〜〜〜っそり撮影していて後で私に渡してくれた写真。ちょっと前にプロデューサーが、

「あなたも、他の演奏者みたいにお店の前にポスター作って貼ろうよ〜♪」

と言われたのだが丁重に御辞退申し上げた。それなのに・・・・・(爆死)
こんなの恥ずかしくて友達や知り合いに言えないよおおおおおぉぉぉぉぉ・・・・・。
しかも、早速貼られてしまった。
いいや、自分は見ないようにしよう。そして、友達には、ナイショ(爆)
こんなの、こっ恥ずかしくて。
大体にして、自宅も職場も近いんだぞおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!!
社長&プロデューサーは、2人ともとっても楽しそうだった(凹)
私は、ビジュアル系では無いのに・・・・・(超不服)
嗚呼、どうしよう。いやいや、見ないフリ見ないフリ。
現実逃避に決定。

体調は全快、とゆ〜程でも無いのだけれど、もうリサイタル本番までカウントダウンに入ったので、上手く調整しながらやって行くしかない。
6日には、ミルヒー先生のレッスンにオクレール先生も一緒に行って頂いて、主にクレオパトラのレッスンをする予定だし。ダ・カーポの曲が多いので1曲の演奏時間が結構長い。今日はエネルギー配分に一番重点を置いて練習した。やっぱり、ど〜やって歌ってもクレオパトラのアリアの後半4曲は、かな〜りドラマティックに歌う形になってしまう。その為、やはり前半4曲は軽めとゆ〜か柔らかい歌唱を心がけないとキツい。ここの所の調整は、6日にミルヒー先生&オクレール先生と御相談事項になるだろう。
やっぱり、クレオパトラのアリア5曲はかなりタイヘン(苦笑)それでも、きちんとブレスの位置を確認して行けば自分の想定通りに歌えると思うが、それでもなるべくブレスを長めに取ろうと思って無理すると中途半端になってしまうので、カンニングブレスの位置確認は直前まできっちりみっちり行っていかなければならいだろうなあぁ・・・と実感した。特にアジリダの部分は相当に要注意(滝汗)
それと、最近ヘンデルのアリア9曲通して歌うようになってから目立って来た事が、低音域(主に5線の下の方)の頭部や体幹の開き方がまだまだ不十分な事。もともと下降音形でポジションが下がりやすいので、非常に集中力を持って低音域を歌わないと喉が絞まりがちになって息の流れが悪くなる上にイタリア語の子音のアタックが弱くなり音程が悪くなってしまう。

音程の悪いバロックなんて、超最低(誤爆)

とゆ〜事で、やはり低音域はまだまだ不十分。相当集中して練習&確認を行っていかなければならない。しかも、クレオパトラは相当低音域をしっかりきっちり歌っていかないと、クレオパトラらしく聴こえない。ドラマティックに聴こえない。迫力が無くなってしまう。これは、流石に避けたい(笑)
私はプロでは無いので、通り一辺倒の歌い方をしたくない。自分の「クレオパトラ」を歌いたい。自分で自分を「型」に嵌め込みたくない。クレオパトラは今後全てのアリアを勉強して自分自身のレパートリーにしたいので、きっちりと自分の歌い方を掴んで確固たる声を作り上げて行きたい。そうなると、私の声質のポイントになるのは、やはり中低音域になる。この中低音域で勝負出来るソプラノ。これを目指している。
ストレートでは無く、スライダーやチェンジアップでストライクを取りに行くピッチャーみたいなカンジかな(日本シリーズ観戦中)
取り敢えず、6日のピアノ合わせまで頑張らなきゃね〜。

明日は月曜日だから、スタジオ3時間練習取れると思う♪
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