晴れの日はANDANTE

私のライフワークである歌曲やオペラ、日々の練習やレッスンについて、気ままに綴っていきます。

2010年05月

シングルマザーと、ベートーベンと、家柄の日々

ブログを書く気にもならん程、忙殺された12日間だった。


まず、10日前の夜勤で相談を受けた。
病棟の後輩看護師が僅か20歳代前半で、

「私、絶対に産みます!!!」

と、夜勤で相談を受けた直後に、高らかにシングルマザー宣言をされた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(滝汗)
それからが大変だった。
まだ週数が浅いので、力仕事をなるべくさせないようにフォロー、両親に報告するように助言と、病棟課長への報告のタイミングと、夜間の救急診療のフォロー体制。友人の助産師に早速メールで連絡した。
兎に角、無事出産出来るまで絶対にフォローしなければならない。人間一人の命に係る問題である。
この件に関して、約1週間拘束状態だった。

その間に、月1回の日勤で、リーダー業務と、委員会と、後輩指導と、新人歓迎会を、1日でこなす。
先輩鬼看護師が不在だと、職場が弛む。只管、檄を飛ばす。
次の日の2件の手術の全準備を行わなければならなく、約1ヵ月振りの日勤業務で勘を取り戻すのに、必死。
新年度の医療事故安全対策委員会で、看護部長と看護課長のバトルにウンザリする。
そして、久々の日勤で昼夜逆転傾向の疲労困憊の中新人歓迎会で、上司や後輩や医師のフォローに走る。
整形外科の手術を中心に受け持つ病棟なので、私は後輩看護師だけでなく、リハビリテーション科の理学療法士や作業療法士にも、恐れられている。

私の場合は殊更、ナメられるよりは、恐れられている方が、適正である。


この間、ネットでとある映画を見つけた。
「Copiying Beethoven」
邦題「敬愛なるベートーベン」
2006年に全国公開された映画らしい。全く知らなかった。
以前、演奏会に来てくれた看護師の友人が私の歌を聴いて、ベートーベンに関する映画を観た事を思い出した事を話して貰った事がある。友人は「資質」という事を強調して話していた。それからベートーヴェンに関する映画を探し続けていた。
最もこの「敬愛するベートーベン」が友人の観た映画かどうかは、結局、今では確認の余地は無いのだが。

この映画に登場する写譜師の女性アンナ・ホルツは実在しない人物だという事だが、映画としては非常に素晴らしい作品であると本当に感動した。
まず、ベートーベンという人物像。
モーツァルト「アマデウス」並みに、ベートーベンという人物に関してほぼ装飾無く肉薄しているのではないか、と思わせる程の迫力ある表現。主演のエド・ハリスも素晴らしい演技でベートーベンを熱演している。
ベートーベン晩年の時期で、交響曲第9「合唱付き」の初演と、弦楽四重奏「大フーガ」誕生に深く関わる映画である。
写譜工房のシュレンマーが「Beast!」と恐れる程の激しいベートーベンの気性と、甥のカールを盲目的に溺愛し、病魔、特に難聴に苦しみ肺水腫やリュウマチや痛風を抱えながらも作曲に埋没しているベートーベン。
勿論、架空の女性写譜師アンナ・ホルツにも決して甘い顔や言動は見せない。
しかし、アンナ・ホルツの写譜師や作曲家としての才能を認識した途端に、自らの過ちを認め跪き、女性や人間としてでは無く、飽くまでも音楽家として、束縛し傾倒して行くベートーベンとアンナ・ホルツ。
飽くまでもその集約された人生と物語が「音楽」を中心として決してブレる事が無いという点が、私にとって「アマデウス」よりも、ベートーベンとこの映画をより遥かに身近にリアルに感じさせる。

特に私が非常に気に入っている、ベートーベンの台詞。
「私に謝るだと???謝るくらいなら挑みかかれ!!!卑屈な人間は嫌いだ!!!!!」
「神と私は完璧に理解しあえる。同じ穴の熊だ。唸って引っ掻き合う。背中合わせで寝れば誰も近付かん」
「孤独が私の宗教だ」
「音楽は空気の振動だが、神の息吹だ。魂に語りかける。神の言葉だ。音楽家は最も神に近い存在だ。神の声を聴く。意志を読み取る。神を讃える子供達を生み出す。それが音楽家だ。でなければ音楽家は必要無い」
「私は音の無い世界に生きてる訳じゃ無い。頭には音が満ちている。湧き上がる音を書くのが唯一の安らぎだ。その代償として、神は私の聴覚を奪ってしまった。だが聴く喜びを禁じられても私の音楽こそ神の声だ」
「分からなければ美意識を鍛えろ。醜くても内蔵を抉るような音楽だ。腹の底から神に近付くのだ。ここに神が宿る。頭や心じゃない。腹の底に神の存在を感じる。腸はとぐろを巻いて天に向かい頭脳より冴えわたる。糞に塗れるから天国に行ける」
「私は新しい言葉で神を語りたい」
「終らん。流れるのだ。始めも終わりも考えるな。君の恋人の作る橋と違って曲は生きものだ。まるで、形を変える雲や潮の満ち引きと同じだ」
「一つ死んで、次が生まれる」
「無音が鍵だ。音符と音符の闇の沈黙だよ。沈黙が深まると、魂が歌い出す」
「芸術家は自分を信じる。君の橋は陸地を繋ぐだけだ。私の橋は人の魂を繋ぐ。神は私に大声で《創れ》と叫ばれる。だから難聴に。君も視力を失えば人を批判する権利を持てる」
「どう感じる?悲しみか、怒りか、憎しみか。私を殺したければ、作り直せ!」
「ベートーベンは一人でいい」
「このまま去っても私から解放されんぞ」
「この作品(大フーガ)が私の橋だ。未来の音楽への架け橋だ。その橋を渡れば、君は解放される」

ベートーベンは本当に病人だったのだと、思う。
病んでいる人間だからこそ、体も心も真に病んでいる人間だからこそ、吐露出来る言葉があると思う。病んでいる人間でなければ言えない言葉があると思う。それは、病というものが人間の本質の一部であるからこそ、より真実に近いという現実が存在するのが「人生」なのだと思う。
それは、私は自分自身の職業上、より誰よりも強く感じている事の一つであると、自覚しなければならない使命を持っているのだと、認識している。
「美しさ」とは、「綺麗さ」では無いのだと。
「美しさ」と「綺麗さ」とは、決して同義語とは言えないのではないのか、と。
歴史に残る美とは、綺麗さだけでは済まされないのだと。
しかし、過去の歴史の現場を観る術を持たない人間にとって、残された宝の一つが「音楽」であるのだと、この映画を観て本当に心から、感謝した。
私自身が、ベートーベンの音楽に関わる事の出来る人間である事が出来て、何よりも神に感謝している。

この映画の評に関しては、指揮者の佐渡裕氏が、
「この映画を観て、益々この曲が恋しくなった。ベートーベンを驚かせるような「第9」の演奏!いつかやってみたい。それが僕の目指すところ」
と書かれていた。
ベートーベンの自宅アパートの隣に住む老婆が、アンナ・ホルツに、何故引っ越さないのかと尋ねられて、
「引っ越す???ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベンの隣に住んで、誰よりも早く作品を聴けるのよ。初演前に聴けばウィーン中が嫉妬するわ。交響曲第7番の時から住んでいるの。名曲だわ。じきに新しい交響曲が誕生ね」
と言って、ベートーベン交響曲第7番の一部を口ずさむシーンがある。
私が、去年ウィーンに行った時にウィーンの街中を散歩した時に、ベートーベンの像が多く、しかも最もカッコ良かったのを不思議に思ったのを覚えている。ベートーベンは、癇癪持ちの変人で難聴になってからは近隣の住人と頻繁にトラブルを起こし、何百回もの引っ越しを繰り返したという逸話もある。
しかし、そのようなベートーベンが如何にウィーン市民に愛されていたのか、実際にウィーンに行き、そしてこの映画を観て本当に身に染みてようやく理解する事が出来た。
交響曲第9「合唱付き」の初演のシーンは、何度観ても涙が流れる。
もし、タイムスリップ出来るならば、その場に居たかったと心から思えるような映像。
いや、その歴史的場面に立つことが出来ない事が解っているからこそ、このような素晴らしい映画に謙虚に感動を覚える。


この映画を観て、去年ウィーンでN先生にレッスンを受けた、ベートーベン「Ich liebe dich」の事を思い出した。
私の声は、何度も言うが、決して「美声」では無い。しかしウィーンのN先生は私のベートーベン「Ich liebe dich」を聴いて、
「Schön」
と、一言言って下さった。
それだけで、もう十分なのだとも、思う。
私はこの映画「Copiying Beethoven」の、実在しない写譜師アンナ・ホルツと同じような存在である。
私はベートーベンの歌を歌うが、コピイストである。
何故なら、オリジナルは、飽くまでも「作曲家自身」であるからである。
でも、その「コピーする」という行為を自分自身の声で行うという機会を与えられた事を、心より光栄に思う。


今日は久しぶりの2連休。
ここの所、休むヒマも殆ど無くて、連続夜勤の間の休日も殆ど練習にならなかった。
夜勤明けで、弁護士とのやり取りや、親父の入院費用や借金の管理や、寝ないで都内まで楽譜の購入に出掛ける事も多かった。
お陰で、歯が痛い。最近、珍しく真面目に歯医者に通っている。
今日は、オフ日にした。
去年のように、喉を痛めて、ヤンクミに迷惑は掛けたくない。


最後の「家柄」に関しては、まだ問題の真っ最中なので、何れ改めて、後日。



落ち着いてクレオパトラの練習

ゴールデンウィーク中、6日連続夜勤(3連当直)だったので、今日までの3連休がワタシのゴールデンウィークなのである。


今日は、午後3時までゆっくり寝て、午後5時からスタジオ練習。
昨日、谷岡先生とのレッスンで、新しく始める事に関して大方の荒筋が出来たので、今日の練習はゆっくりクレオパトラ。今回初めて歌う1曲目「Non, disperar」の練習を丁寧に入念に行った。
ヤンクミのピアノ伴奏のテンポを合わせるために、メトロノームでテンポ♪84〜88まで少しづつ微調整を行いながらアリアを歌い続けた。
このアリア「Non, disperar」は、歌いながら非常に体が動く、というか動かさざるを得ない。しかも軽やかに歌われなければならず、但しミルヒー先生のオーダー通りに声や体の支えを抜いて歌う事は絶対に出来ないので、早めのテンポで音楽自体を前に進めると同時に可能な限り軽めの発声を行って行く事が最重要課題である。
結局、メトロノーム♪86でテンポ設定する事に決めた。
ダンスに近い状態でかなり体を動かすので、場合によっては扇子を使用する事も念頭に置いている。その方が動きに気を取られずに体の動きと発声のバランスを取りやすいかも知れない、と考えた。これは、真央ちゃんのエキシビションのスケーティングを観てアイディアを頂いた(笑)
クレオパトラがトロメーオをからかっている情景をうたでも演技でも、きちんと表現出来なければならない。
但し、ダンスに近い体の動きで軽快に歌うとなると、一番の問題はブレス箇所の変更を余儀なくされる部分が発生してしまうという問題である。
これに関しては、上手く調整を行って行く事が非常に重要である。
グラインドボーンの映像のダニエル・ド・ニース程までのダンスなど踊らないが、体全身でトロメーオをからかい嘲笑うと言う事にチャレンジしてみたい。
とゆ〜事で、本日3時間のスタジオ練習の内の半分の時間をこの「Non, disperar」の練習に費やした。
練習終了後にヤンクミに、このアリアのテンポ86のオーダーをメールで知らせて御了承頂いた。

残りの時間、まずは「Se, pieta」のレチタティーヴォの練習。声量的には大分バランスが取れて来たのだが、フォルテ〜スフォルツァンドまでの部分、余り感情的になってしまうと、中低音域の音程が崩れてしまう。
ドラマティックに歌われなければならないアリア程、中低音〜低音域に鋭く深い発声が必要不可欠であるというのが、私の持論である。
特に、ソプラノは。
という事で、中低音域は、多少、休符以上の「間」を取りながら、落ち着いて歌う事を心掛けた。感情的になり冷静さを失い力任せに歌ってしまわないように、細心の慎重さが最重要課題である。


最後、少し余った時間で、昨日谷岡先生のレッスンで、

「何か、違う」

と指摘されたシューマン「ミニヨン」の練習を行った。
やはり、最大の失敗は、クリスティーネ・シェーファーの録音を長く聴いて勉強してしまった点にあるのだと、相当に反省した。レジェロ〜スープレッドのシェーファーの歌唱は、発声的には私の参考や勉強にはならない。自分自身の発声で曲の練習を始めるという事を、谷岡先生のレッスンに持って行く前段階でもっともっと早く行わなければならなかった。
昨日谷岡先生のレッスンで歌ったシューマン「レクイエム」を想定しながら「ミニヨン」を、ゆっくりと発声、特に自分の声の太さや深さや響きのアタックをフレーズ毎に確認しながら、ゆっくり短時間だけ練習を行なった。地道に練習を続けて行けば、リサイタル本番までには何とか調整出来ると考えている。


買い物をして帰宅して、今日もヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のDVDを観ている。

最近は、グラインドボーンの映像よりも、コペンハーゲンの映像を観る事が増えた。
理由としては、インガー・ダム・イェンセンのクレオパトラの方がダニエル・ド・ニースよりも私にとっては発声的にも演技的にも、学ぶ事が近くて多い、という事がある。
それと、やはりセスト役に関しては、テューバ・セミングセンの方が圧倒的に歌唱がハイレベルであるという事。
シーザー役のアンドレアス・ショルも非常に素晴らしいカウンター・テナーである。
コルネーリア役は、やはりカーディフ優勝経験のあるパトリシア・バードンの方が非常に素晴らしいので大変捨て難いのだが、コペンハーゲンのランディ・シュテーネも多少音程ではパトリシア・バードンに及ばないが、声は素晴らしいコントラルトである。
ただ、コペンハーゲンとグラインドボーンの映像の大きな相違点としては、シーザーとセストの関係性が挙げられる。
グラインドボーンでは飽くまでシーザーとセストはローマでの政敵としての関係性を随所に表わしているのだが、コペンハーゲンではシーザーはポンペイウスの首が運ばれて来た時点で、シーザーがポンペイウスの代わりにセストの父親的な要素が多少見えて来る演出となっている。

政治的因果関係と謀略と陰謀の国際ドラマ支持派のワタシとしては、コペンハーゲンの映像はちょっと良心的過ぎるような気もしなくは無い(爆)
しかし、コペンハーゲンの歌手も皆素晴らしいので、暫くの間ヤンクミ一座の演奏会本番までは、コペンハーゲンの映像を中心に鑑賞して行こうと考えている。
コペンハーゲンの、アキッラ、ニレーノも素晴らしい歌手揃いである。
グラインドボーン程のコミカルな要素には多少欠けているとも言えるが、私自身、「エジプトのジュリアス・シーザー」のクレオパトラ役を全幕通して歌う訳では無いので、臨機応変に映像や録音を選択して行く事が最も望ましい勉強方法であろう事はまず間違いが無いだろう。



明日からまた悪夢の6日連続夜勤。
そして、その合間を縫って、動き始めた「新しく始めた事」のための、残りの30曲分の楽譜をコピーして谷岡先生とウィーンの先生方々に造らなくてはいけない。
まだ、シューマンの本も放りっ放しである。
リサイタル用の原稿、シューマン歌曲の歌詞対訳や楽曲解説も、まだ手付かずである。
嗚呼、やる事が山ほどある・・・・・・・・・・・・・・・・・(滝涙)

人生最大の難関。

今日は、つ〜か、昨日は「母の日」でしたわね。
ギャラリーカフェのプロデューサーに、赤とピンクのカーネーションのミニブーケをプレゼント。最近、本当に励まして頂いて元気付けて下さった事が、沢山あったから。
そして、今日は谷岡先生のレッスンだった。いつも真摯にレッスンして下さり、相談に乗ってくださり、某自己中な私の紹介人物の相手も嫌な顔一つ見せずに対応してくださり・・・、そして一児の母でもあるので、谷岡先生の好きな色のカーネーションのミニブーケをレッスン時にプレゼント。
私の母親になんざ、花なんかやらない。花が勿体無い。7年も前に数百万の借金残して失踪した母親なんざ人間とも親とも思わないし、やる花なんざ無い。さっさとくたばれ下衆野郎。今度生きて会ったら私が引導渡してやる。死に損ないが、生きてる事自体が税金の無駄無駄♪花の命の方が、余程尊く美しい。


今日は、久し振りの谷岡先生のレッスン。
まずは、先日私が不覚にも安易に紹介してしまった声楽勉強希望者が、たった2回のレッスンだけでトンズラこいた事のお詫びと謝罪から始めさせて頂いた。谷岡先生自体は「気にしていない」と仰ってくださったのだが、私自身は腸が煮えくりかえる程怒っている。勿論、その無礼千万な恩知らず外道とは、今後一切友人関係を断った。当然だ。私の大切な恩師に、何て事してくれやがったんだ。そのうち見てろ。ロクな死に方しやしないから、覚えていやがれ!!!
と、文句と愚痴と謝罪も、谷岡先生が程々に聞いて下さった。


まずは、今後始める新しい事のための、新しい楽譜をお渡しした。約50曲分の、新曲の楽譜。
全てクリアケースに種別毎に分類して、今後のレッスンで谷岡先生が楽譜を探すのに困らないように。
本当に、楽譜や録音を集めるだけでも一苦労ものだったが、これでようやく新しい事を谷岡先生やウィーンの先生方々と始められる準備を一歩を踏み出せた。
まだ、30曲程楽譜が揃っていないのだが、それも今年中には何とか揃う目途が付いている。
大変なのは現代曲だが、それも然程多くは無いので、谷岡先生にも今後の楽譜や音源の確保についての目途の説明を行い、御納得頂いた。
兎に角私の場合新しい勉強を始めるには、楽譜と音源の確保は必須である。
今後大変な事は目に見えている。
しかし、今日、谷岡先生の御意見を伺ったら、矢鱈と到達目標が高い、いや、高すぎる(滝汗)これには相当に戸惑った。ちょっと自分自身の判断では不可能としか考えられない。
しかし、躊躇し戸惑っているのは私一人だけで、谷岡先生もウィーンのM先生もギャラリーカフェのプロデューサーも看護師親友達も、誰もが「可能」と考えている。
困ったものだが、私一人だけの意見がその他の多数の人々と真逆という事は、即ち、私の判断能力が何らかの客観的で冷静な方向性を見失っている可能性を否定出来ない。
とゆ〜事で、さんざっぱら酒瓶を空にしつつも、ここは素直に皆様の御意見を伺い従って見る事も非常に大切な事なのではないかと、超珍しく考えてみたりもする。
取り敢えず、新しいレッスンは、2ヵ月後に新しい楽譜が届いて、6月のヤンクミ一座の演奏会が終了した後に開始するという事で、谷岡先生と御相談出来た。


本日のレッスンは、今年12月のシューマンのリサイタルから3曲「ミニヨン」「レクイエム」「全ての人にまさって」
昨日も今日も、スタジオ練習で一等力を入れて練習していった、のだが・・・・・・・・・・(汗)
まず1曲目の「ミニヨン」を歌ってみてからの、谷岡先生の御指摘。

「何か、違う。シューベルトのミニヨンとは全然違うのよ。ドイツリートだからと言って、声を細めに造り過ぎていないかしら???シューマンの曲は、もっと大人の声楽家の声が必要というか豊かな声が必要なので、もっとオペラアリアを歌うようにしっかりと声を響かせて歌って。シューベルトのミニヨンは、あれは鼻歌と同じようなものだから」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
成程、私は鼻歌はOKなのだ(誤爆)
別段、細めの声の太さに調整してはいなかったのだが、何しろモーツァルト「魔笛」パミーナのアリアを基準にドイツリートの発声を最近行う事が多かった。
理由は、ミルヒー先生のクレオパトラのアリアときちんとした明確な「区別」を音楽的若しくは発声的に音楽的分類をしなければならないという必要性を自分自身強く感じていたからだ。
しかし、これは作曲家の特性という必要不可欠な要素を考慮していないかった私自身の怠慢及び判断ミス及び勉強不足である、としか言いようが無い。「ミニヨン」に関しては練習に更に時間を頂くよう谷岡先生にお願い申し上げた。

2曲目、本当は「レクイエム」をレッスンして頂こうかと考えていたのだが、「ミニヨン」の事を考えて、先に「女の愛と生涯」から「全ての人にまさって」を歌う事にした。理由としては、この「全ての人にまさって」はジェシー・ノーマンの録音以外は参考に勉強していないため、声の調整が太めであるだろう事が容易に想像出来たからである。案の定、テンポが多少遅いために重く聴こえてしまう、と谷岡先生に指摘された。
但し、声質としては「ミニヨン」よりも適当であり、もう少し明るい発声であったほうが良いとの御指摘だった。ノーマンの歌唱のテンポに合わせて勉強していたため、実際の歌唱の理想的なテンポよりも若干遅い、という事だった。しかし、この「女の愛と生涯」は、レジェロからヘルデンまで、多くの女声が歌っているため、ノーマン以外の誰の録音を勉強するべきか非常に困り果てていたのだが、谷岡先生のお勧めはクリスタ・ルートヴィヒだったので、今度はルートヴィヒの録音を勉強しようと考えている。
基本的には、今後メトロノームを使用して早めのテンポに調整しながらも、緩急をつけた歌唱技術とりタルダンドのタイミングを再考するようにとの御指摘が成された。
細かい歌詞の意味合いや表現の方法については、全体的な曲のテンポ調整後、という事になった。これについては、少しだけ、残念(苦笑)

最後は「レクイエム」日本ではまず殆ど歌われているのを聞いた事すら無い。先日、偶然にも私の尊敬し憧れるサラ・コノリーの録音を発見して速攻購入した。
「レクイエム」に関しては、谷岡先生から殆ど指摘を受ける事が無かった。強いて言えば、ピアノ伴奏に合わせて歌うのが初めてだっただけに、最初はちょっと迷ってしまって声量が控えめになってしまったのだが、中盤以降は私本来の声質で歌っていたと谷岡先生が御判断下さったので、今後はこの「レクイエム」の歌唱を基準に他のシューマンの歌曲、「ミニヨン」「全ての人にまさって」を初めとして練習していくようにとのアドバイスを頂いた。但し、シューマン指定のテンポ63♪では、やはり結構停滞しがちなテンポであるので、実際に聴いている側としては、もう少し前に進むようなテンポの歌唱を目指すべきであろうという、谷岡先生の御指摘だった。
でもこれは、本当に嬉しかった。


私には、1歳年下の妹がいた。
僅か30歳の若さで、夫と小学生の娘を残して、自殺してしまった。
真冬の12月、八甲田山付近の湖の側で妹の車と衣服が見つかった。
遺体が発見されたのは、年の明けた3月中旬だった。
正視出来ない程の、遺体だったとの事だった。
3ヵ月以上も、冬の八甲田山の冷たい湖の氷の下に埋もれていた、妹。
私は、何も一つも、助けてやる事が出来なかった。
高校生時代から、本当に苦労に苦労を重ねて来た妹。折角、結婚して子供も生まれたのに。誰の助けも得られないまま、自殺という選択肢しか選ぶ事の出来なかった妹。
だから、私は、自殺を否定する人間は、絶対に許さない。自殺を選ぶしか無い程に追い詰められた人間の苦しみや悲しみや絶望を、
「自殺は良く無い事です。命を大切にしましょう」
などど、腐った綺麗事・戯言を垂れ流す偽善者なんか、大っ嫌いだ。そんな連中こそ、死んでしまえ!!!
本当なら、私が代りに死んでやるべきだったと、10年以上経った今でも、その気持ちは全く揺るがない。
私は、声楽の勉強を始めてもう10年になる。
本当は、ワーグナーの「ヴェーゼンドンクの5つの歌」の第1曲「天使」を、妹のために歌いたかったのだけれど、去年ウィーンでのレッスンで、N先生から、ワーグナーは全て、

「Only study, Concert No!」

と言われてしまった。
今後もN先生の元でレッスンを受け続けて行くと自分自身決めた以上、この教えを破る事は考えていない。
でも、私は声楽の勉強を始めてから、死んでしまった妹のために、まだただの1曲も歌っていない。
でもせめて少しはマトモに歌えるようになってリサイタルを開く事が出来るようになったのだから、今年12月シューマンのリサイタルで歌うこの「レクイエム」は、不遇にも苦労に苦労を重ねた上に、冷たい氷の下に3ヵ月もの長い間埋もれていた、本当に悲しい妹のために、歌いたいと思っていた。
だから、今回のレッスンでこのシューマン「レクイエム」を、谷岡先生に認めて頂けた事は、ここ数年本当に苦しい出来事ばかり続いていた私にとって、本当に希望の持てるレッスンだった。
これでようやく亡くなった妹の為に、妹の魂を慰める事の出来るかもしれない曲を歌える事が出来て、とっても嬉しかった。「レクイエム」は、ソロでソプラノが歌える曲もそれ程多くは無い。
これから頑張れると思うと、少しホッとした。


暫くの間、6月のヤンクミ一座の演奏会が終了するまではクレオパトラ漬けだが、少しづつシューマンの練習も行っていかなければならない。


それにしても、新しく始めた事、どうしよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(自爆)

表現するという事

ここの所、ブログを更新する気力も失せる程、凹む事が続いた。スタジオ練習後もパソコンは開くが、全く文章を書きたい気持ちにならなかった。
親父の件を始めとして、もういい加減これ以上は打ち止め終了にして頂きたい、とも思うのだが、存外これだけ不幸な出来事が重なるって事は、この不幸を総て処理しさえすれば、長生きは免れるかも知れんと考えると、多少頑張って立ち向かって見る気にもなろうというものだ。
幸い、話しを聴いてくれる友人が多いのでガス抜きには本当に御協力頂いているのだが、問題の根本的解決は結局、自分自身一人にしか出来ないのだからして。


最近のスタジオ練習メニューは、6月ヤンクミ一座で歌うクレオパトラのレチタティーヴォとアリアを5曲と、12月のシューマンのリサイタルの曲11曲である。約3時間。クレオパトラは比較的きっちり歌い込むけれど、シューマンンは兎に角11曲通して歌っている。リサイタル本番の流れを掴まないといけない。歌い出しの曲、苦手な曲、比較的歌い易い曲など、多少マズい箇所があっても途中で立て直すポイントなどを予めきちんと把握しておく事が、リサイタルでは非常に重要になって来る。

クレオパトラに関しては、今後はヤンクミとのピアノ合わせが一番重要だと考えている。何しろ、一度はリサイタルで歌っている曲なので一人で練習するよりも、ヤンクミとの伴奏に慣れる事が最重要課題だろう。

逆に、シューマンはまず自分自身まだ11曲全体の流れを掴みきれていない。これは、非常にマズい。
ここの所の悲惨な状況に振り回されて、シューマンの曲が体に入って行って無い。譜読みはまずまず出来ているが、歌唱レベルで考えてみると、ヘンデルのリサイタルよりも早くに準備を行って来たのに出来はヘンデルの時よりも遥かに遅滞を来たしてしる。
録音に関して言えば、アメリンクやシェーファーの録音を聞いても自分自身の発声や表現の志向性の参考には全くならないので、既に録音は聞いていない。


閑話休題。
最近、ちょっと好きな人がいる。
と言っても、若い頃のように付き合いたいとか結婚(再婚!)を目指すとか、そ〜ゆ〜気持ちはあんまし無い。
どちらかというと、たまに会えたりメールしたり、という距離感が非常に気に入っている。
相手も、私の気持ちは知らない。(筈である)
別に、告白しようという気も、無い。
兎に角、今のこの状況が私自身にとってはベストなのである。

ところが、つい先日、偶然親しい人から、彼の過去の出来事を聞いてしまった。これが少々マズかった。
今の距離感に、疑問を持ってしまった。
前進では無く、後退方向に向いてしまった。
好きな気持ちは全く変わっていない。とゆ〜か、寧ろ、好きな気持ちは強くなっているよ〜な気がする。
言葉に表わすと、

「私の出る幕では無い」

というカンジ。但し、急に態度を変えたり距離を離したりメールしなくなる、などという大人気無い行動を起こす年齢は、当の昔に過ぎ去ってしまったので(爆死)、現状的には何等変わらない。
ただ、相手の厚意は、ちょっと辛い。
先日、暑い真昼間、アイスクリームを持って来てくれた。ちょっと勿体無くて食べられなかったけど、溶けちゃうし(自爆)
そ〜言えば、ホワイトデーに貰ったマカロン10個、頑張って2週間かけて自分一人で全部食べた。余り甘い物は食べないんだけど。酒のツマミにならんので。
とても、切なくなった。


そ〜ゆ〜事を考えていたら、1つの曲を思い出した。
シューマンの連作歌曲「女の愛と生涯」から第2曲「Er, der Herrlichste von allen」
楽譜は随分前に購入して、6〜7年前にはこの曲の楽譜だけドイツ語訳と発音記号を書き込んで指示記号をチェックして、何時でも譜読み出来る状態にしてあった。ジェシー・ノーマンの録音を聴いて、どうしてもこの第2曲「全ての人にまさって」を歌ってみたかったからだった。
でも、当然の如く、難し過ぎる。余りにも難し過ぎた。5年位前に演奏会でシューマンの「献呈」を歌った時にもこの「全ての人にまさって」を歌う事は出来なかった。
今年のシューマンのリサイタルの選曲にも、挙げていなかった。
それ位、この曲から離れていた。でも、最近この一連の出来事があってからノーマンの録音を再び聴き始めた。
ここの所、もう1週間位、ヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」のDVDを観た後に、必ずシューマンの「全ての人にまさって」のノーマンの録音を聴いていた。
聴き続けているうちに、涙が止まらなくなってしまった。
ノーマンの歌唱を聴きながら、酒の空瓶だけが増えて行く・・・・・(誤爆)
ノーマンの歌唱を聴いて行くうちに、段々ドンドン、自分も歌いたくなってしまった。
今なら、今の自分だったら、この難曲を何とか歌う事が出来るんじゃないだろうか???
シューマンのこの曲を、自分の気持ちと合わせて歌に表わしてみたい、シューマンのこの曲に対する愛情や想いを決して壊さないよう、そっと自分の思いをこの曲に乗せて、歌う事が出来るならばどんなに嬉しいだろう!!!!!そう思ったらもう気持ちは止められ無い(苦笑)

今日スタジオ練習に行って、3時間シューマンの曲を歌った。リサイタルの11曲と、「女の愛と生涯」の「全ての人にまさって」を歌ってみた。
本当なら「女の愛と生涯」全曲通して勉強してからこの曲を歌うのが、ものの順序というものだろうという事はきちんと解っている。
でも、今この「全ての人にまさって」を歌わなかったら、いつ歌うというんだ!!!!!と思った。初めてこの曲を通して歌ってみた。
歌えるかも知れない。今なら。
本当は、明日の谷岡先生のレッスンにこの「全ての人にまさって」を持って行って相談してからにしようと思っていたのだが、考えが変った。
12月、シューマンのリサイタルの曲を差し替える事に、決めた。
2曲外して、この「全ての人にまさって」を歌う事に決めた。
ピアニストのY先生にも、楽譜と録音をお送りしなおさなくてはならない。


でも、今の私が一番表現したいものを、一番歌いたい曲を歌うべきだと思う。
自分の本当の心には、逆らう事は出来ない。
自分自身の心に嘘をつく事は、私には出来ない。
だから、本当にとても難しい、高い歌唱技術特に表現力を求められる曲だけれども、挑戦するのは今しか無い。
この「全ての人にまさって」という曲を、きちんと表現して歌いたい。
でも、きっと大変。何しろ今日は、練習で歌っている最中に涙が出て来てしまった。リサイタルで泣きながら歌う訳にはいかない。いや、例え涙が流れてもきちんと歌えなければならない。
スタジオでこの曲を練習して歌いながら、楽譜を見ていて本当に多くの事を考えた。
この言葉が何故この音なのか。
指示記号はピアノだけど、私ならピアニッシモで歌いたい。
「選択」という歌詞は、削除的な選択肢では無く「光の射す場所を目指す」ように。
「涙」という歌詞よりも「至福」という歌詞をどのように美しく歌うか???
シューマンは、クララと子供達を残して先に自らが死を迎える事をまるで知っていたのではないのだろうか???と考えてしまうような曲。
それとも、シューマン自身の心をクララに向けて、この曲が作曲されたのだろうか???
本当に、シューマンは天才なんだな、と心から思った。


私は自分が歌う曲を選ぶ時には、必ずと言って良い程、自分がこう表現したい、という「意志」が在る。
そうでなければ、歌う事がとっても難しい。
演奏会で、先生に選曲して頂く曲は圧倒的に、少ない。今までも数える位しか無い。
作曲家と、詩人と、自分の表現したい事を、丹念に洗い出して掘り下げて統合して行く。この作業が大好きなのだ。
無論、自分がどれだけ表現出来たのか、という事を客観的に評価するために、聴き手に聞いたりアンケートを書いて頂いたりもする。それは、今後の自分自身の歌唱の成長に必要不可欠な事だからだ。
当然、ブログには、頑張った事や努力した事や苦労した事を、書いている。
しかし、演奏会でそれを言葉で言う演奏者は、存在しないだろう(笑)
頑張りや努力や苦労は、言葉で語るものでは無いし、演奏に表れるものでも無い、と私は考えている。
自分自身が、本当に頑張って努力して苦労したものは、その歌唱や演奏に、美しさや心を動かすエモーショナルな要素として表在して行くのだと、私は確信している。

頑張りも努力も苦労もしない演奏者に、美しい響きや心を動かす何かが現れる演奏が出来るなんて、太陽が西から昇って東に沈んでも、思えない。
増して、聴き手の反応を自己研鑽よりも先行的に優先するような事態は、作曲家を疎かにする行為であり、言ってみれば「本末転倒」であるというのが、私の持論である。

天才であればまた違うのかと今迄考えていたが、恐らくそれは誤認である。
私の大好きなアインシュタインの言葉。

「わたしは天才ではありません。ただ、人より長くひとつのこととつき合ってきただけです」



明日の谷岡先生のレッスン、頑張って行こう♪
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