私は、自分で歌う曲の勉強や練習を行なう時には、なるべく多くの歌手の録音や映像を聴いたり観たりする。
理由は沢山ある。スタンダードな演奏、オリジナルな独創性を含む演奏、歌手によって異なる解釈、表現、声量、装飾音、外国語の発音、ブレスの位置、声質の選択。
基本的に自分が大好きな歌手や尊敬する歌手の録音を聴いたり映像を観たりするが、それだけでは無い。自分がレパートリーとしたいと考えているオペラは、数種類のCDやDVDを揃える。最近はYoutubeもかなり便利になっているので、大いに参考にする。少しでも多くの歌手の歌唱を聴いたり観たりして、参考、勉強にする事を心掛けている。
例え、名歌手でも、アマチュアでも、持っている声は全く違うものであるし、皆様々な師に教わっている。名演奏家が必ずしもそのまた上の名演奏家に師事している、有名演奏家に師事している、とは限らない。
そして、名演奏家や名歌手の演奏を参考にしたり勉強にしたりすれば、必ずその人も同じ様な名演奏家になる訳でも無い。
逆の言い方をすれば、名演奏家や名歌手、自分が師事している先生の演奏や歌唱を勉強すれば「真似」になるとは限らない、という事も充分に言えるという事になる。
そして、他人と違う演奏、他人と違う歌唱、他人と違う発声が即オリジナル、新しい素晴らしいものかというと、それもかなり怪しいと考えざるを得ない。
大体にして、クラシック音楽の特性の一つは「再現藝術」であるという事が挙げられる。
まず、自分の師事した先生から再現の手法を習得する。当然、演奏形態は師事した先生に似て近い事はあって然るべきかも知れない。
そして、自分が素晴らしい、美しいと感動した演奏家や歌手を参考に、自分が演奏する、歌う曲を勉強する。自ずと影響を受ける事は当然有り得る事である。
その中で敢えて違う部分を個々に探すとすれば、個人個人の持つ身体機能、声楽で言えば体格、骨格、身長、体重、声帯の太さや長さ、肺活量などの予備能力などが考えられる。
当然、師事している先生のレッスンを受ければその先生の癖なり習慣なりも同時に習得する可能性も高い。それは、自分自身が好んで聴いたり観たりする歌手や演奏家についても同じ事が言える可能性は高い。
それは、別に間違った事では無いだろうと私は考えている。
同じ先生にレッスンを受けている生徒の演奏の傾向性が類似するのは以上の視点からも無理からぬ事であると考えられる。それに、好きな演奏家や歌手の趣向に似てしまうという事も、上記の観点からも無理の無い事であると考えている。
逆に、全く影響を受けないというのは、非常に感性が鈍い若しくは鈍感である、という見方も可能である。
非常に重要な事は、師事している先生の何を何処を真似るのか学ぶのか、自分が尊敬する或いは好きな演奏家や歌手の何を何処を真似るのか学ぶのか、である。師事している先生、または自分自身が好きな演奏家や歌手を参考に勉強する時に、どのような事を参考に勉強したり学ぶのか、自分と違っている部分はどのような所なのかという事を、冷静に綿密に客観的に分析しながら学ぶ必要性は高い。ただ自分の耳に聞こえて来た事を自分の思い込みで真似ているだけでは、それは学習能力に疑問を持たざるを得ない。
人間が音楽を演奏する際に一番初めに使う身体器官は、まず「耳」である。まず音楽を聴く事。
そして、演奏する為には楽譜を見る事、それは「目」であると私は考えている。
その両方をフル活動し曲を演奏するための勉強や練習をして、その各身体器官の動きを「脳」が記憶して「筋肉」や「骨格」の動きを細部に渡りチェックする。それを繰り返して機能させる事により、演奏や歌唱手段を体自身が習得して行くと私は考えている。
そうでなければ、再現藝術にはなり得ないのではないのか、と私は考えている。
耳コピー、という事を言う人間がいる。耳コピーとは飽くまで耳だけを通じて脳に刻み込まれる現象であり、身体の各機関の稼働が連動しているという事になり得ないと私は考えている。つまり、耳コピーという脳の感覚だけで演奏したり歌っている演奏が、再現芸術であるクラシック音楽の演奏に適うものなのか、甚だ疑問に思わざるを得ない。耳コピーした自分の演奏や歌唱を自分自身の演奏や歌唱と思い込むのは誤認である可能性が非常に高いと言わざるを得ない。しかし「耳」で慎重に注意深く聴き取る事から何を得られるか、何を得ようとするのかは、その個人の感性や資質と言える事が出来ると私は考えている。それが、継続した学習内容の分析、習得、実践、評価、考察、再検討の繰り返しによる緻密な連続した技能習得能力なのではないだろうか。
耳だけで聴いた曲を、詳細な身体機能の運動分析による嗜好性と反発と軌道修正と弱点克服無しに、習得したと思い込む事は、単なる誤認であると言わざるを得ない。
では、耳から入る音楽無しに演奏技術や能力の習得を他者との比較論で位置付けし、自分自身への他者からの高評価を目的とするのは、単なる「奢り」であると私は考えている。
「個性」と「やりたい放題」は全くの別物である。他人との演奏や歌唱との違いを強調する事により自分の特殊性を主張するのは傲慢であると私は考える。自分の師事している先生と似ているのは真似、似ていないのがオリジナルという安易な発想は、己の思考機能を退化させるだけの怠惰に過ぎないというのが私の考えである。
その最たる理由が、クラシック音楽とは「再現芸術」だからであるというのが私の基本的姿勢である。
オリジナルとは個別性の最たるものであるが、クラシック音楽に於けるオリジナリティーは、他でも無い作曲者である。オリジナリティーと、比較論としての優劣とは全く別世界にカテゴライズされるべきものであり、同者を同次元で取り扱う事自体、無知に等しいと考えられる。演奏や歌唱を耳からのイメージに捕われる以前にまず演奏者や歌い手は、楽譜という確固たる資料を自分自身の「目」によって確認し、継続・連続した鍛錬や修練による身体機能や知覚機能の誤認や修正のチェック機能を適切に行なってこそ、初めて「自分自身の演奏」という特色が表現、表出されるものではないのかと私は考えている。
幾ら名演奏家や名歌手に、自分の演奏や歌唱を似せようとしたところで似る筈が無い。もともと与えられている「楽器」自体が違うのだから。似ていると誤認している自分自身の耳や感性を常に疑って見る検証する能力を培う努力を怠るべきでは無いと考えている。
それとほぼ同意義で、師事している先生と演奏や歌唱が似ている事は、個人の持つ資質や嗜好性などの特性との関連性は然程高く無いと私は考えている。似る理由があるとすれば、資質や嗜好性よりもそれは個人の持つ「楽器」の特性の類似点により多く依拠するものであると推察出来る。
これと類似した例として、「特定の歌手の演奏や録音を聴き続けると、その演奏者や歌手の癖がついてしまう」という事を平気で言う人間がいる。しかし、単なる耳コピーだけで、その個人特有の「癖」とやらが個人の身体機能に習得されてしまうという言い草は、運動機能や身体機能上、余りにも無理があり過ぎると言わざるを得ない。物真似は癖も含めて物真似だからこそ全くの他人と類似するのであって、自分の都合の悪い、師事している先生からレッスンで警告を受けた事を、過去の演奏家の単なる悪い「癖」として認識しようとするのは余りにも傲慢である。
第一、過去のどのような名演奏家も名歌手も、
「私の真似をして歌えば確実に世界的スターになれますよ」
なんて言った演奏家が存在したのだろうか。
それは過去の演奏家や名歌手や師事している先生の「癖」が自分に移ったなどという馬鹿げた話では無く、寧ろ自分の安易な「耳」に頼っただけの怠慢な学習態度の演奏・歌唱により身体機能や知識や技術の習得や鍛錬を怠った怠慢な演奏によって「自分自身の悪い癖」が露呈しただけの話ではないのか、と考えるのが私は妥当ではないかと考えている。
大体にして、演奏家や歌手や先生に対して、失礼極まりない(超苦笑)
いずれにしろ、比較論だけでしか自分自身の演奏や歌唱を評価出来ないとは何とも貧しい感性のように想う。
名歌手であろうが、師事している先生であろうが、自分の演奏の特性は自分自身の要因に起因するものであるという事を、肝に銘じておく必要性は高い。
大体にして、耳からインスタントに安易に入って来た演奏を、充分な分析や解釈や鍛錬無しに習得出来る再現芸術などあるだろうか。
私は、虚栄的な人間は、嫌いだ。
理由は沢山ある。スタンダードな演奏、オリジナルな独創性を含む演奏、歌手によって異なる解釈、表現、声量、装飾音、外国語の発音、ブレスの位置、声質の選択。
基本的に自分が大好きな歌手や尊敬する歌手の録音を聴いたり映像を観たりするが、それだけでは無い。自分がレパートリーとしたいと考えているオペラは、数種類のCDやDVDを揃える。最近はYoutubeもかなり便利になっているので、大いに参考にする。少しでも多くの歌手の歌唱を聴いたり観たりして、参考、勉強にする事を心掛けている。
例え、名歌手でも、アマチュアでも、持っている声は全く違うものであるし、皆様々な師に教わっている。名演奏家が必ずしもそのまた上の名演奏家に師事している、有名演奏家に師事している、とは限らない。
そして、名演奏家や名歌手の演奏を参考にしたり勉強にしたりすれば、必ずその人も同じ様な名演奏家になる訳でも無い。
逆の言い方をすれば、名演奏家や名歌手、自分が師事している先生の演奏や歌唱を勉強すれば「真似」になるとは限らない、という事も充分に言えるという事になる。
そして、他人と違う演奏、他人と違う歌唱、他人と違う発声が即オリジナル、新しい素晴らしいものかというと、それもかなり怪しいと考えざるを得ない。
大体にして、クラシック音楽の特性の一つは「再現藝術」であるという事が挙げられる。
まず、自分の師事した先生から再現の手法を習得する。当然、演奏形態は師事した先生に似て近い事はあって然るべきかも知れない。
そして、自分が素晴らしい、美しいと感動した演奏家や歌手を参考に、自分が演奏する、歌う曲を勉強する。自ずと影響を受ける事は当然有り得る事である。
その中で敢えて違う部分を個々に探すとすれば、個人個人の持つ身体機能、声楽で言えば体格、骨格、身長、体重、声帯の太さや長さ、肺活量などの予備能力などが考えられる。
当然、師事している先生のレッスンを受ければその先生の癖なり習慣なりも同時に習得する可能性も高い。それは、自分自身が好んで聴いたり観たりする歌手や演奏家についても同じ事が言える可能性は高い。
それは、別に間違った事では無いだろうと私は考えている。
同じ先生にレッスンを受けている生徒の演奏の傾向性が類似するのは以上の視点からも無理からぬ事であると考えられる。それに、好きな演奏家や歌手の趣向に似てしまうという事も、上記の観点からも無理の無い事であると考えている。
逆に、全く影響を受けないというのは、非常に感性が鈍い若しくは鈍感である、という見方も可能である。
非常に重要な事は、師事している先生の何を何処を真似るのか学ぶのか、自分が尊敬する或いは好きな演奏家や歌手の何を何処を真似るのか学ぶのか、である。師事している先生、または自分自身が好きな演奏家や歌手を参考に勉強する時に、どのような事を参考に勉強したり学ぶのか、自分と違っている部分はどのような所なのかという事を、冷静に綿密に客観的に分析しながら学ぶ必要性は高い。ただ自分の耳に聞こえて来た事を自分の思い込みで真似ているだけでは、それは学習能力に疑問を持たざるを得ない。
人間が音楽を演奏する際に一番初めに使う身体器官は、まず「耳」である。まず音楽を聴く事。
そして、演奏する為には楽譜を見る事、それは「目」であると私は考えている。
その両方をフル活動し曲を演奏するための勉強や練習をして、その各身体器官の動きを「脳」が記憶して「筋肉」や「骨格」の動きを細部に渡りチェックする。それを繰り返して機能させる事により、演奏や歌唱手段を体自身が習得して行くと私は考えている。
そうでなければ、再現藝術にはなり得ないのではないのか、と私は考えている。
耳コピー、という事を言う人間がいる。耳コピーとは飽くまで耳だけを通じて脳に刻み込まれる現象であり、身体の各機関の稼働が連動しているという事になり得ないと私は考えている。つまり、耳コピーという脳の感覚だけで演奏したり歌っている演奏が、再現芸術であるクラシック音楽の演奏に適うものなのか、甚だ疑問に思わざるを得ない。耳コピーした自分の演奏や歌唱を自分自身の演奏や歌唱と思い込むのは誤認である可能性が非常に高いと言わざるを得ない。しかし「耳」で慎重に注意深く聴き取る事から何を得られるか、何を得ようとするのかは、その個人の感性や資質と言える事が出来ると私は考えている。それが、継続した学習内容の分析、習得、実践、評価、考察、再検討の繰り返しによる緻密な連続した技能習得能力なのではないだろうか。
耳だけで聴いた曲を、詳細な身体機能の運動分析による嗜好性と反発と軌道修正と弱点克服無しに、習得したと思い込む事は、単なる誤認であると言わざるを得ない。
では、耳から入る音楽無しに演奏技術や能力の習得を他者との比較論で位置付けし、自分自身への他者からの高評価を目的とするのは、単なる「奢り」であると私は考えている。
「個性」と「やりたい放題」は全くの別物である。他人との演奏や歌唱との違いを強調する事により自分の特殊性を主張するのは傲慢であると私は考える。自分の師事している先生と似ているのは真似、似ていないのがオリジナルという安易な発想は、己の思考機能を退化させるだけの怠惰に過ぎないというのが私の考えである。
その最たる理由が、クラシック音楽とは「再現芸術」だからであるというのが私の基本的姿勢である。
オリジナルとは個別性の最たるものであるが、クラシック音楽に於けるオリジナリティーは、他でも無い作曲者である。オリジナリティーと、比較論としての優劣とは全く別世界にカテゴライズされるべきものであり、同者を同次元で取り扱う事自体、無知に等しいと考えられる。演奏や歌唱を耳からのイメージに捕われる以前にまず演奏者や歌い手は、楽譜という確固たる資料を自分自身の「目」によって確認し、継続・連続した鍛錬や修練による身体機能や知覚機能の誤認や修正のチェック機能を適切に行なってこそ、初めて「自分自身の演奏」という特色が表現、表出されるものではないのかと私は考えている。
幾ら名演奏家や名歌手に、自分の演奏や歌唱を似せようとしたところで似る筈が無い。もともと与えられている「楽器」自体が違うのだから。似ていると誤認している自分自身の耳や感性を常に疑って見る検証する能力を培う努力を怠るべきでは無いと考えている。
それとほぼ同意義で、師事している先生と演奏や歌唱が似ている事は、個人の持つ資質や嗜好性などの特性との関連性は然程高く無いと私は考えている。似る理由があるとすれば、資質や嗜好性よりもそれは個人の持つ「楽器」の特性の類似点により多く依拠するものであると推察出来る。
これと類似した例として、「特定の歌手の演奏や録音を聴き続けると、その演奏者や歌手の癖がついてしまう」という事を平気で言う人間がいる。しかし、単なる耳コピーだけで、その個人特有の「癖」とやらが個人の身体機能に習得されてしまうという言い草は、運動機能や身体機能上、余りにも無理があり過ぎると言わざるを得ない。物真似は癖も含めて物真似だからこそ全くの他人と類似するのであって、自分の都合の悪い、師事している先生からレッスンで警告を受けた事を、過去の演奏家の単なる悪い「癖」として認識しようとするのは余りにも傲慢である。
第一、過去のどのような名演奏家も名歌手も、
「私の真似をして歌えば確実に世界的スターになれますよ」
なんて言った演奏家が存在したのだろうか。
それは過去の演奏家や名歌手や師事している先生の「癖」が自分に移ったなどという馬鹿げた話では無く、寧ろ自分の安易な「耳」に頼っただけの怠慢な学習態度の演奏・歌唱により身体機能や知識や技術の習得や鍛錬を怠った怠慢な演奏によって「自分自身の悪い癖」が露呈しただけの話ではないのか、と考えるのが私は妥当ではないかと考えている。
大体にして、演奏家や歌手や先生に対して、失礼極まりない(超苦笑)
いずれにしろ、比較論だけでしか自分自身の演奏や歌唱を評価出来ないとは何とも貧しい感性のように想う。
名歌手であろうが、師事している先生であろうが、自分の演奏の特性は自分自身の要因に起因するものであるという事を、肝に銘じておく必要性は高い。
大体にして、耳からインスタントに安易に入って来た演奏を、充分な分析や解釈や鍛錬無しに習得出来る再現芸術などあるだろうか。
私は、虚栄的な人間は、嫌いだ。