先日ギャラリーカフェで知り合ったピアニストの演奏会に招待されて東京文化会館に行って来た。曲目は、バッハの平均葎第1番〜4番、ベートーベンのピアノソナタ【悲愴】、シューマン【子供の情景】全曲、ショパンのワルツとバラード第1番だった。選曲としてはどうなのだろうか?私はピアニストでは無いから良く判らないのだが、誰かピアニストの方で御意見があればお聞きしたい。会場は30人程が入る部屋でスタインウェイがあった。用意された20余りの椅子はほぼ埋まり、前置きは殆ど無くすぐに演奏会が始まった。
彼女がピアノの前に座った途端、世界が変わった。室内の世界はピアニストの世界になった。彼女にはピアノしか見えていないのが、こちらから見ても充分に分かった。鍵盤すら見えているのかと思うくらい空間が彼女に凝縮された気がした。割と自由な揺れるバッハ。私がバッハを歌うなら、こうは演奏出来ない。かつてギャラリーカフェで『リヒテルのバッハは、バッハでは無くリヒテルを聴く事になる』と教えてくれた彼女のバッハは、私が感じた通りに言えば何だか《気軽なバッハ》だった。その気軽なバッハとは裏腹に弾いているピアニストは緊張感と気迫の漲る演奏だった。
ベートーベン【悲愴】は、第1楽章は鍵盤を叩く音まで聞こえそうな迫力で第2楽章は全く空気が変わり穏やかになった。この空気の変化は、私がギャラリーカフェで聴いたあの鳥肌が立つ程の空気の変化と変わらなかった。ピアノソナタの楽章を切り離して評価は出来ない事を改めて思い知らされた。まるでベートーベンが指揮する時の呼吸が聞こえてそうな気がした。私も今ベートーベンを歌っているので強く感じたのかも知れないが、彼女の中に一体どのようなベートーベンが生き続けているのだろうかと疑問が湧いた。私と違う事だけは分かったのだが。シューマンは、何と言ったら良いのか《休符》のような気がした。彼女が何故シューマンを選曲したのかその理由は尋ねていないが、テンションが下がった訳でも集中力が低下した訳でも無いのだが、敢えて言うなら、この【子供の情景】という曲と向き合う時の心構えが随分違うのだろうか。それとも曲に対する解釈の違いなのだろうか。
最後のショパンのバラードはベートーベン以上の迫力だった。ショパンのワルツは良く知られた曲なので丁寧に弾いておられた感がしたのだが、バラードはもうベートーベンの【悲愴】並にワールド・エンドな切迫感に満ちていた。