無論「歌スタ」の場合はクラシック音楽では無いのでキャパそのものが違うのだが、歌を歌う事に必要な条件はジャンルを越えて大切なのだと考えると、ポピュラー音楽ですら大切な事ならクラシック音楽では何をか云わんや、である。特にその場の比較論即メディアに丸映りというのはかなり恐ろしいなと思う。努力で改善が期待出来る事はまだ良いとしても、資質や天性は比較されても努力の及ばない部分は多々ある。それをこの番組から感じ取り考え自己分析し評価判断し自分で再勉強し努力するのはかなり厳しい事だと思う。
実際、私自身かなり以前から「声が大きい」「声量がある」と言われ続けて来たのだが、今の所全くそれを活かす事が出来ていない。歌スタではマイクが声を拾ってくれるがクラシックではマイク無しで1000人単位のホールの奥まで届く声でなければならない。以前ドイツ歌曲を習っていたバリトンの先生が、
『どんなに声を張り上げても、所詮響いてない声は聞こえない』
と言われた事がある。無論発声の問題として取り上げられるべき問題だが、今回は違う視点で考えたい。例えマイクを通しても通さなくても声量が大きいと判断できるならそれは技術を遥に越えた大きな資質である。
資質をより効果的に最大限に活かすためにはより確かで高度な技術を要するが、技術云々が不安定でも尚声量の大きさは聞き手に訴える要素が多分にあるという事だ。ポピュラーでさえそのような力があるのならクラシックならより重要であると考えられるが、本当に響く声の修得には何と時間を要するか。それがクラシックという伝統芸術・古典芸術所以なのだ。しかも、私の場合というかアマチュアの場合は特に声量の大きさという誤謬に陥り易い。寧ろ声量が大きいために勘違いした事で本当に響く声への到達に10年近くも費やしてしまう私のように。だからこそ余計に歌スタ審査員の『声量は最大の武器なり』という言葉に敏感に反応してしまった。今の私には声量の大きさに対する感謝よりも声量の大きさを真に発揮するための努力と困難の方が重くのしかかる。声が大きい事も喉が強い事も歌うジャンルに拘わらず大きな武器であるが、自覚し努力し最大限効果的に活かす事が出来ない以上、持たないよりもタチの悪いただの《宝の持ち腐れ》に過ぎない。ある意味歌スタを見たお陰で焦燥感や悔しさの方を強く感じる。それでも努力だけは地道に続けなければならない事には何等変わりが無い事だけは確かなのだが。