マルツェリーネのアリアを歌い終わった後に私はハリセン先生と谷岡先生に話した。
「今の私の声はマルツェリーネにしては太いんじゃないでしょうか?なるべく軽く歌うようにはしているんですが、それでも気になります」
すると谷岡先生が、
『でもかわいらしく歌えてると思うし、ベートーベンのオケって結構分厚いからそんなに気にしなくても大丈夫だと思うけど』
私は、
「でも私の持ってる録音は、ドナートやポップみたいな歌手が歌っているし、もう少し声を細めに歌えた方が良いとは思っているんですけど・・・」
そこでハリセン先生が一言、
『だって声が硬くて響かなくなるんだから仕方ないでしょ』

私は何も言えなかった。ハリセン先生の言っている事は至極ごもっとも。マルツェリーネの役柄に合わせた声で歌う技術が今の自分には無いのだから今の自分の出来る声で歌うしか無いのだが、今このリサイタルが差し迫った状況でのハリセン先生のこの一言はかなり堪えた。
それでも谷岡先生が、
『あなたの持ってる声で歌う事が一番だから』
と最後にフォローして下さった。何だか、リサイタルでマルツェリーネを歌う事がとても怖くなった、というかリサイタルそのものが恐ろしくなった。
《オペラはその役柄が歌い手を選ぶ》とは正にこういう事なのかと改めて思い知らされた気がした。途方に暮れた。
リサイタルは中止出来ないし、今更曲を差し替える事も出来ない。何よりもこのベートーベン【フィデリオ】マルツェリーネのアリアは、ウィーンでのレッスンにも持って行く予定である。でも今はウィーンの事は考えられない。目の前のリサイタルですらどうしたら良いのか全然解らなくなってしまった。自分自身、今まで必死に気持ちを強く持とうと心掛けて来たのだが、今は不安しか無い。もう一刻の猶予も許され無い状況なのだが、どうしたら良いのか解らなくて立ち止まってしまっている。