そこで一つ気付いた事がある。気付いたというよりも、気付いてしまった事というか何というか。ピアニストに《魔王の魅惑》と要求された時、正直今すぐそれを声で表現するのは自分には不可能だな、と単純に考えた。でもリサイタル本番までもう時間が無い、取り敢えずやれるだけやってみるしか無い、では魔王はどう歌うか、無理か、いやいや、イメージだけなら確実にある。それはジェシー・ノーマンが歌うシューベルト【魔王】のイメージだ。ノーマンの真似など逆立ちしても到底不可能ではあろうがせめてノーマンの100分の1でも1000分の1でも、勇気を出して魔王の声に挑んでみよう!と開き直った。運が良かったか偶然かは解らないが、少なくともピアニストには《魔王の魅惑》の片鱗だけでも感じて貰えたのかも知れない。それは非常に嬉しい出来事だった。
しかし、私がピアニストとの合わせ練習の後で帰り道に歩きながら考えていたのはその事では無い。全く違う事に気付いてしまったと言った方が適切のように思う。
少なくとも【菩提樹】のような難曲で私自身がピアニストの要求に即座に適応するなど土台不可能な事である。しかし、今日のように僅かながらでも対応する事が出来た理由は何だろうか?
私自身の中に『魔王の魅惑』に対するイメージが確実に存在するのではないのだろうか。もし《魔王》に対するイメージが皆無であれば今日のような結果は無い。確かに、ジェシー・ノーマンの【魔王】の録音を何百回、映像を何百回と見聞きしていれば自分自身意識しなくとも《魔王》に対するイメージが無意識に形成されていたとしても決して不思議ではないのかも知れない。
ただ、一つだけ非常に危険な考えに気付いてしまった。自分はシューベルト【魔王】を勉強してみるべきではないのか、という事である。しかしシューベルト【魔王】と言えば名曲中の名曲、難曲中の難曲、それでなくてもドイツ歌曲の中でも難易度としては最高峰のバラード。大体にして同じシューベルトのバラード【こびと】でかなり苦しんでいるのに果たして【魔王】など勉強出来るのだろうか。到底考えられない。シューベルト【魔王】は、語り手・父親・少年・魔王の4役を歌い表現し尽くさなければならない。まだ発声だけでも不安定な私に勉強出来るとは到底考えられない。無謀という他無いだろう。だが、恐らく最たる問題は自分自身の心だと考えている。リサイタルとウィーンでのレッスンから帰国した後で、熟慮したいと考えている。