仕方が無いだろうと思った。朝から発声1時間、ゲネプロ1時間半、リサイタル本番既に半ばである。いつものスタジオ4時間練習でもここまでフルに歌う事は無かったと思うが、以前レッスンを受けていたバリトンの先生にも言われた《喉が強い》の一言を信じて歌い終わるまで堪えるしか無い事は言うまでも無い。【菩提樹】で最も怖かったのは、体力・喉・精神的疲労によって低音域が不安定になり音程が崩れる事だった。【菩提樹】は勿論、高声用楽譜(ソプラノ&テノール)を使用しているが、それにしてもやはり音域がとても低い曲で、女声でもコントラルトが歌う事が殆どでソプラノの録音は極めて少ない。それでも引くワケにはいかない。ピアニスト先生が、
『菩提樹はあなたの声に合ってる曲だと思う』
この言葉に本当に救われた。本当に疲れを感じ始めた時、人間ってこの一言に本当に助けられて力を分けて貰えるものなんだと実感した。でも歌ってみるとやはり疲労が出て来たのか、中低音域が若干不安定だと実感した。それでも低音域はギリギリ歌い切る事が出来た。しかし《魔王の魅惑》を表現出来たかどうかは怪しかった。【セレナーデ】はFisに全ての集中力を注がなければならなかった。
ピアニスト先生とも何度か練習したが、このFisが美しい響きで歌えたらきっとプロなんだろうかとも考えたが、今自分が疲労困憊の中で出来る最大限で歌わなければならない。それでも【セレナーデ】は最初谷岡先生から、
『音域がとても合っていると思う』
と言って頂けた曲だから、とにかく無理せず少し軽目に声を出しても良いから、こういう時こそ自分の歌の技術の未熟さを自分の声で補う事が出来たら、と思った。【セレナーデ】も女声の録音は決して多くは無い。【菩提樹】同様、元々は男声のために書かれた曲であるという理由もあるが、今本番の瀬戸際に立つ自分にはそのようなウンチクは何の足しにもならない。この【セレナーデ】、後半はあのハリセン先生がレッスン時にうなづきながら聞いて下さったので、取り敢えずレッスン通り歌うしか無いのだがかなり疲労を自己認識するようになっていたので、1曲歌う毎に横を向いて呼吸を整えなくてはならない状態だった。それにも増してピアニスト先生もノリに乗って来て「そこまで引っばるか〜!!!」と感じるくらいにピアノ伴奏が歌っていた。ブレス不足で微妙に不安定さが見えたが、それでも大きな失敗も歌詞忘れも無く、何とか歌う事が出来た。