のだめカンタービレ第5巻特別編で千秋が子供の頃ウィーンでの物語が描かれている。そこで千秋はヴィエラ先生に無理矢理弟子入りするのだが、そこに大変興味深いシーンがある。千秋がヴィエラの演奏を聴いて、自分の父親・千秋雅之の言葉を思い出す。チャイコフスキー《悲愴》で、千秋の父親千秋雅之は、
『そんなに大げさに暗く弾いちゃ変だよ。悲しさをただストレートに悲しく弾いたんじゃだめだ。この曲にはチャイコフスキーの秘密と謎が隠されてるんだ。秘密だから謎なんだよ。チャイコフスキーは悲しくてもそれを言う事ができなかったんだ。そんな風に弾いてごらん』
カラヤンの言葉を聴いた時に、のだめカンタービレのこの場面を思わず思い出した。これらの事を自分の独断に満ちた浅知恵で安っぽい言葉を並べ立てて書く事はたやすいのかも知れないが、今の私が間違ってもやるべき事だとは考えられないので、カラヤンの言葉については更なる熟考と歌の勉強と声の鍛錬が必要不可欠だからこれ以上のコメントは差し控えておきたいと思う。音楽の表現とはここまでに深く強固な概念と理論と熟練に支えられ尚且つ才能に恵まれなければ相当に不可能だと思い知ると、私なんかが歌う事は心底怖いと思う。
もう一つ考えさせられる言葉があった。モーツァルト歌劇【ドン・ジョバンニ】のリハーサル、マゼットがレポレッロに変装したドン・ジョバンニに叩きのめされツェルリーナに助けを求める場面。カラヤンはマゼット役のアレクサンダー・マルタに演技の注文をつける。まず自分自身が痛みを感じてから動作(演技)しなければならない事、まず動作(演技)があって台詞(歌)が無くてはならない、と説明する。
『ポイントを表面に出しては駄目だ。あるべき所にあればいいんだよ』
とカラヤンは語る。これは難しい、私には難し過ぎると感じた。ポイントが合った演技に歌が流れていれば、観客は面白い場面で笑えるし悲しい場面では泣ける、という事なのだが。これは実際にオペラのレチタティーヴォは勿論の事アリアを歌う場合でも演技に於いては非常に重要な要素である事は間違い無いのだが、ドイツ歌曲の表現に於いてもほぼ同じ事が言えると考える。ドイツ歌曲に関して言えば先日の初リサイタルに於いての私の歌は表現のポイントを全面に出していたと、かなり痛い(苦笑)谷岡先生やピアニスト先生の御尽力でそれを免れた曲も数曲はあったと思うが、幾らドイツ語を頑張って発音しても表現するまでには至らない訳だ。