つまり、私自身が表現しようとしていなかった事が聞き手に伝わったというか感じ取れた、という事になる。
これは私自身の持論であるが他の演奏者に当て嵌まるとは思わないので他人には絶対にオススメしない考えなのだが、
《表現とは志向性の問題ではなく寧ろポテンシャルの問題である。表現を頭で考えたり楽譜から読み取る努力よりも、寧ろ曲に表現されている内容が自己の経験や認識として内在されているのならば、それをわざわざ表現しようと躍気にならなくとも声や楽器を媒体として自然に自ずから表に現れるのが芸術に於ける表現である》
というのが私の持論である。要するに、私自身あれこれ【トゥーレの王】に関する解釈やら講釈やらに苦心しなくとも、私自身の中に【トゥーレの王】という曲にリンクされた経験や自己認識が印象付けられて自分自身のものとなって内在されていれば、意図的に何かを表現しようとしなくても自然に私の歌に表れるはずである。
今回この【トゥーレの王】で以上の事が起きた。私自身が表現したいと躍起になった事など皆無であったシューベルトの死に対する概念?憧憬?予感?とにかくそれらのいずれかを聞き手が感じたと実際に私に伝えて来たのだ。
これはいいな(笑)、とかなり嬉しかった。意図的に表現しようとしなくとも想定外の表現が感じ取られたという事はある意味《適性》という解釈が成立すると私は考える。相当に【トゥーレの王】では散々苦労したのだが、この事実は思わぬ可能性を私自身にもたらしてくれた。
私に感想を言って下さった方はドイツ語に詳しいご様子ではないらしく、【トゥーレの王】の曲自体は御存知のご様子だったが聴いた事は無いらしく、辛うじてゲーテ「ファウスト」の中の曲である事だけは御存知のご様子だった。そこから私の歌を聴いてシューベルトの《死の概念》を感じるという事も物凄い事だな(笑)と思うが、今回の出来事から、どうやら私自身に《死》を歌声で表現する適性が存在する可能性が非常に高い事が感じられた。
2月のリサイタルの時もピアニスト先生にシューベルト【菩提樹】を歌った時に同じ様な事を指摘された。ピアニスト先生いわく、
『シューベルトって、こんなに若いのに達観していて、まるで死を見据えた曲ね。ディースカウが【菩提樹】の中間部を《魔王の魅惑》って言ったのよ。あなたの声に凄く合ってると思うわ』
これはイケる、と思った。私の志向性に於いて表現した訳では無いからだ。