ここで私自身の《死》に関する認識を書いておく。私の尊敬する哲学者で三木清という人がいる。三木清が「人生論ノート」という論文に書いている事を少し紹介したい。
三木清は「人生論ノート」〔死について〕で、
『ゲーテが定義したように、浪漫主義というのは一切の病的なものの事であり、古典主義というのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるということもできるであろう』
と述べている。私はこの部分を読んだ時に真っ先に考えた事が、シューベルト歌曲【魔王】は浪漫的であり、【トゥーレの王】は古典的であるという事である。少なくともそう強く感じた。これはシューベルト歌曲を歌ったり勉強したりする上で非常に興味深い。
それから三木清は「人生論ノート」〔幸福について〕で実にシュールに表現しているのが、
『死そのものにはタイプがない。死のタイプを考えるのは死をなお生から考えるからである』
と述べている事だ。シューベルトが様々な詩人の詩に実に多様な曲をつけている事は、シューベルト自身がかなり強く生から《死》を意識していた可能性も有り得るという仮説が考えられる。シューベルトの死生観が垣間見える気がする。
これらのシューベルト歌曲の《死》を歌う適性が私自身に存在する可能性の高さは私の歌に多大なる影響を与える事となるだろう。まずはあれこれ考えるのでは無く、シューベルトの曲とゲーテやコリンやミュラーの詩を素直に勉強して歌う事から始めたい。私自身に出来る事は決して多くは無い。少しづつでも私の声が持つポテンシャルがシューベルトの音楽と反応して聞き手に伝わる何かが形成されて行く事が出来れば大変幸せであると考えている。
《死》を歌う事、《死》を表現する事は決して容易な事では有り得ないのは今更認識するべき事でも無い。でも例えそれがどんなに困難な事であったとしても、それがやらなくて良い事とは限らない。寧ろ困難であるからこそ成し遂げなければならない事かも知れない。モーツァルトの勉強を全て棚上げしたが、また新たに勉強するべき事がすぐに見つかってしまった(笑)とにかく今は自分に出来る勉強や自分自身がやりたい勉強をして歌って行けたら少し気分的に楽になる事が出来るかも知れない。例えそれが《死》の歌であっても私自身が目標を持って前向きに歌って行く事が出来るならば、別にモーツァルトでなければならない事も無いのではないか、と思える。