それに、例えば今回ウィーンで指摘されたモーツァルトのオペラのレパートリーに関して。ウィーンではレパートリーでも日本では〔おかしい、違う〕みたいな評価や判断が存在する訳だ。自分自身ウィーンでレパートリーと言われても、日本で違うと言われてしまうと勉強したり歌う自信も無くなってしまう訳だ。
それでも何とか頑張って勉強しようと考える、増して誰かに聴いて欲しいと思って頑張って勉強しようと思ったりする訳だけれど、
『他人の為じゃなくて、自分の為に歌うんでしょ?』
とか言われたりすると、そんなに苦しんでも頑張って歌えるようになりたいと思った自分の気持ちって一体・・・・・無駄か?(爆)と思う。確かにその通りだから、それなら誰も私の歌を聴きたいと思っていないのなら、そんなに頑張る必要性なり必然性なりが存在するのか?自分が頑張って歌えるようになって誰かの為に歌えるようになりたいという気持ちも意味が無くなってしまった。それなら、ただストレスと違和感だけを感じながら歌うなら、勉強やレッスンだけで充分お腹一杯御馳走様、という話になる。何だか自分の気持ちまで無駄なものに思えてしまったら、それこそ本当に歌う事が出来なくなってしまうだろう。
だから、もう自分で無理と思うのなら例え先生や友人も含めてどのような評価を頂こうが、自分が人様の前で歌う事に違和感を感じたりストレスに感じたりする曲を頑張って演奏会本番で歌わなくたって良いではないか。これはモーツァルトに限らない。勿論、他の作曲家も十ニ分にある話である。
逆に、幾らウィーンの先生方にレパートリーにはならないと判断された曲や役であったとしても、演奏会本番にさえ歌わなければ、一生懸命頑張って勉強して日本でレッスンを受けて、ウィーンにレッスンの為だけに持って行く。そして、もしもウィーンの先生方から今回のシューベルト【こびと】のようにドラマティックな曲にも拘わらずラッキーな事に認められて許可が出たならば、晴れて日本での演奏会本番で堂々と歌えば良い。
歌える曲や役でも歌わない事と歌うべきでは無い曲や役でも意地でも歌う。この事は普通に考えたら決して《前向き》と言えるのかどうか疑問は感じるけれども、外から見て私が振り回されて悩んで愚痴って立ち止まって歌えないよりはどうやら余程前向きに見えるかも知れないと考えると、かなり逆説的で皮肉なものだと思う(超苦笑)でも、今の自分にとってこれ位の開き直りは必要かも知れない。