私自身、どのみち演奏会本番の出来によって自分自身の演奏に評価をするので日頃の練習量は著名に素直に演奏会に影響されて当然、と考えている。ぶっちゃけ、演奏会や先生のレッスンで自分の練習不足を認識しているという事は、既にその人個人レベルの問題ですがな(笑)
練習らレッスンでの努力が演奏会で全て実るはずも無いのだが、充分な練習や努力をして来なかった事を演奏会本番で出来るという事はほぼ不可能と私は考えている。もし自分が不十分な練習やレッスンでも演奏会で歌えたと思うならば、それは私自身に関しては、慢心か傲慢か勘違いの類という認識と評価を採用している。
〔自然に・頑張り過ぎない・自分のペースで〕
という言葉は、演奏会やコンサートやリサイタルでの自己評価を適切に謙虚に受け止め努力の糧にしていくという事ならまたしも、
「やっぱり今回も練習不足だった〜次はもっと勉強しよ〜」
というシチュエーションを繰り返し継続していくという《怠惰・怠慢》は自分自身の目標が大きければ大きい程に時間の無駄になってしまう。それどころか、
《自分の声(演奏)に責任を持たなくなる》ので自分自身の演奏に対して無責任になる事だけは避けたい。だから努力が忙しい(笑)


結局、未熟で不十分な演奏を本番舞台で演奏する事で一番困ったり後悔したりするのは他でも無い自分自身なのである。それが嫌なら練習とレッスンにかなり集中しないときちんとした演奏は出来ない。恥を書くのも後悔するのも全て自分自身で単なる自己責任、略して《因果応報》である。人間の行った努力の分だけでも必ず成果が出るならば良いのだが、世の中そんなに甘くない(笑)そして努力の結果を出す事が出来なければ、何よりも次の目標や課題に進めないワケだ。
頑張ったり努力したりするのが余り好きでは無い演奏者の方々は、そういうジレンマは無いのだろうか?
演奏会本番で最後の曲を歌った時のあの充分感がとても大好きだ。糾し、いつも感じられる事ではない。それ相応の努力はかなり必要である事は言うまでも無い事である。自分が大好きな事をやっているだけなので余り苦にもならないし、特別素晴らしい努力をしている人々と比較されるのも余り気が進まない。結局、自分自身の努力や頑張った分だけの結果を得る事は至極当然の事ではあるのだが、ある程度の結果を出すためには頑張り過ぎるくらい頑張って何とか追い付く事が出来るかな〜?というカンジであり。だから努力は止められ無い(笑)