夜勤明けで急いで帰宅して、バンクーバーオリンピックのフィギアスケート女子フリーの演技を観て、一眠りして目が覚めたら、もう午後6時過ぎ。
バンクーバーオリンピックのフィギアスケートの特集ニュースを観てから、もう一度女子フリーの演技を見直した。
私が非常に緊張しながら重要視した選手。カナダのジョアニー・ロシェット選手。
まず最初にはっきり書いておくけれど、これは経験した人間だけにしか理解不可能な事。
大事な大切な重要なパフォーマンス直前の、肉親の出来事。
私がこのロシェット選手のオリンピック中の御母堂の訃報を聴いて、実際にロシェット選手の演技を観て、思わず去年のヘンデルのリサイタル直前の自分自身の事を思い出した。
以前にブログにも書いたが、私は、ヘンデルのリサイタルの1週間前に、青森の親父が脳出血で倒れて2〜3日経過してから発見されて病院に運ばれて生命の危機的状態だとの知らせを聴いて、本当にリサイタルの開催中止を真剣に考えた。
3日間考えて悩んで、リサイタル開催を決定した。
但し、その時に決めた事は、ブログに親父の病気を公表しない事。実際にリサイタルを聴きに来る人もいたから。
但し、リサイタル開催までの1週間の間に親父が死亡する可能性も大きく含まれていたので、ギャラリーカフェのプロデューサーには事情を説明せざるを得なかった。ギャラリーカフェのプロデューサーに親父の脳出血の件を話した時の事を、今でも忘れない。
「実は、青森の親父が脳出血で倒れて数日経って発見されて、もうどれくらい持つか分からない状態です。でも、リサイタルは、やります」
と、断言した時にギャラリーカフェのプロデューサーは、非常な驚きを隠さなかった。
但し、ミルヒー先生、オクレール先生、ブログには、親父の脳出血の件は一切公表せずにリサイタルを自分自身の力だけで乗り切る事を決めた。
決意と孤独と意地と集中力。
今の自分からヘンデルのリサイタルで歌う事を奪うのならばそれは「神」の決めた事に他ならないという「挑戦」だけが私の心に存在した。
ヘンデルのリサイタルに向かう直前に、ようやくブログに書いて、リサイタル直前のゲネプロ前に、ピアニストのオクレール先生に親父の現状を報告。リサイタル中に親父が亡くなる可能性も高かったからだ。
自分自身の精神力の強さと決意と意地の強さを、実感、認識した。
その場の舞台に立つという事だけで、非常な困難。
ロシェット選手の、オリンピックに賭けた決意と集中力と精神力と意地と、神の恵みの銅メダルに、心からの賛辞を贈る。
鈴木明子選手。
長く摂食障害という病気と闘いながら、このバンクーバーオリンピックまで辿り着いた。
男子フィギアスケートの高橋大輔選手も同じだが、実際にスケートを出来なくなるという病気や怪我に苦しむという事、これも実際に経験した事の人間でなければ本当に理解出来ない事である。
実際に演技や演奏に影響を及ぼし練習を中断・減ずるという病気や怪我の経験の無い人間は、共感の余地は無いと思われたし。
私自身、喘息発作に苦しめられ続けている。
発作が起きると、勤務と歌の練習に遅滞を生じるので、大量のステロイド治療を施せざるを得ない。非常に強い副作用が懸念される治療。ステロイド大量療法。
最悪の場合、私は喘息の重積発作という命取りという状況の確率も、あながち低いとは言い切れない。
病気や怪我、克服し完治出来るという事は、そうそう多くは無い。
世の中、そんなに甘く無い。私の命程度であっても、いつでも消える準備は整っている。
いつ、演技・演奏出来なくなるとも限らない。
練習出来ないという、不安、焦燥、苦しみ、悲しみ。
練習出来なければ、総ての道は閉ざされてしまう。
鈴木選手は、その総ての困難を乗り越えて、海を渡ってバンクーバーまで辿り着いた。
フリーの演技「ウェストサイド・ストーリー」での、トリプルループからダブルアクセルジャンプの流れでストレートラインステップに移行する音楽と演技の「夢と希望」への流れと道筋。
諦めない事の大切さと、勇気、意志の強さ。
このフリースケーティングのプログラムは、正に神様からの「贈り物」だと思えるような素晴らしい美しい希望に満ちたプログラムだなあぁ、と心から感動した。
克服するべき「試練」を持ち、それを乗り越える事の出来た人間だけが持つ、本当の強さ。
幸運があったから乗り越えられた、それ以上に、乗り越える強い意志に幸運が微笑んだのではないか、と思ってしまうような、鈴木明子選手。
真の美しさというものは、苦しみや苦難を排除した所に存在する非人間的な世界というよりは寧ろ、苦しみや苦難という下支えがあってこそその上に真の美しさは確実に存在するのだと、確信した。
国際舞台という大きな世界。
日本という小さな国から出て、世界の地面に降り立ち、自分の演技・演奏をするという事。
私が去年、生まれて初めて日本を出てウィーンに行った時の事を思い出した。
誰も知っている日本人のいない、ウィーン国際空港のロビー。
ウィーンのコンチェルトハウスで、始めてシューベルト「野薔薇」の楽譜を開いてB先生の前に立ち、ピアノ伴奏のタイミングを見てブレスを吸い込んだ瞬間。
今は懐かしいけれど、今年の9月はもう既に、懐かしさなどに浸ってはいられないだろう事は明白。
ちなみに、キム・ヨナ選手の演技に関してはコメントは差し控える。
素晴らしい事は、別に私がブログに書くまでも無い事。
その他大勢の、フィギアスケート似非評論家紛いに、総てお任せする事にする(笑)
真央ちゃんのスケーティングのストレートラインステップの演技のような表現力と迫力と意思の強さを持って、私自身も歌の表現を出来るようになりたいなあぁ、と心から願う。
バンクーバーオリンピックのフィギアスケートの特集ニュースを観てから、もう一度女子フリーの演技を見直した。
私が非常に緊張しながら重要視した選手。カナダのジョアニー・ロシェット選手。
まず最初にはっきり書いておくけれど、これは経験した人間だけにしか理解不可能な事。
大事な大切な重要なパフォーマンス直前の、肉親の出来事。
私がこのロシェット選手のオリンピック中の御母堂の訃報を聴いて、実際にロシェット選手の演技を観て、思わず去年のヘンデルのリサイタル直前の自分自身の事を思い出した。
以前にブログにも書いたが、私は、ヘンデルのリサイタルの1週間前に、青森の親父が脳出血で倒れて2〜3日経過してから発見されて病院に運ばれて生命の危機的状態だとの知らせを聴いて、本当にリサイタルの開催中止を真剣に考えた。
3日間考えて悩んで、リサイタル開催を決定した。
但し、その時に決めた事は、ブログに親父の病気を公表しない事。実際にリサイタルを聴きに来る人もいたから。
但し、リサイタル開催までの1週間の間に親父が死亡する可能性も大きく含まれていたので、ギャラリーカフェのプロデューサーには事情を説明せざるを得なかった。ギャラリーカフェのプロデューサーに親父の脳出血の件を話した時の事を、今でも忘れない。
「実は、青森の親父が脳出血で倒れて数日経って発見されて、もうどれくらい持つか分からない状態です。でも、リサイタルは、やります」
と、断言した時にギャラリーカフェのプロデューサーは、非常な驚きを隠さなかった。
但し、ミルヒー先生、オクレール先生、ブログには、親父の脳出血の件は一切公表せずにリサイタルを自分自身の力だけで乗り切る事を決めた。
決意と孤独と意地と集中力。
今の自分からヘンデルのリサイタルで歌う事を奪うのならばそれは「神」の決めた事に他ならないという「挑戦」だけが私の心に存在した。
ヘンデルのリサイタルに向かう直前に、ようやくブログに書いて、リサイタル直前のゲネプロ前に、ピアニストのオクレール先生に親父の現状を報告。リサイタル中に親父が亡くなる可能性も高かったからだ。
自分自身の精神力の強さと決意と意地の強さを、実感、認識した。
その場の舞台に立つという事だけで、非常な困難。
ロシェット選手の、オリンピックに賭けた決意と集中力と精神力と意地と、神の恵みの銅メダルに、心からの賛辞を贈る。
鈴木明子選手。
長く摂食障害という病気と闘いながら、このバンクーバーオリンピックまで辿り着いた。
男子フィギアスケートの高橋大輔選手も同じだが、実際にスケートを出来なくなるという病気や怪我に苦しむという事、これも実際に経験した事の人間でなければ本当に理解出来ない事である。
実際に演技や演奏に影響を及ぼし練習を中断・減ずるという病気や怪我の経験の無い人間は、共感の余地は無いと思われたし。
私自身、喘息発作に苦しめられ続けている。
発作が起きると、勤務と歌の練習に遅滞を生じるので、大量のステロイド治療を施せざるを得ない。非常に強い副作用が懸念される治療。ステロイド大量療法。
最悪の場合、私は喘息の重積発作という命取りという状況の確率も、あながち低いとは言い切れない。
病気や怪我、克服し完治出来るという事は、そうそう多くは無い。
世の中、そんなに甘く無い。私の命程度であっても、いつでも消える準備は整っている。
いつ、演技・演奏出来なくなるとも限らない。
練習出来ないという、不安、焦燥、苦しみ、悲しみ。
練習出来なければ、総ての道は閉ざされてしまう。
鈴木選手は、その総ての困難を乗り越えて、海を渡ってバンクーバーまで辿り着いた。
フリーの演技「ウェストサイド・ストーリー」での、トリプルループからダブルアクセルジャンプの流れでストレートラインステップに移行する音楽と演技の「夢と希望」への流れと道筋。
諦めない事の大切さと、勇気、意志の強さ。
このフリースケーティングのプログラムは、正に神様からの「贈り物」だと思えるような素晴らしい美しい希望に満ちたプログラムだなあぁ、と心から感動した。
克服するべき「試練」を持ち、それを乗り越える事の出来た人間だけが持つ、本当の強さ。
幸運があったから乗り越えられた、それ以上に、乗り越える強い意志に幸運が微笑んだのではないか、と思ってしまうような、鈴木明子選手。
真の美しさというものは、苦しみや苦難を排除した所に存在する非人間的な世界というよりは寧ろ、苦しみや苦難という下支えがあってこそその上に真の美しさは確実に存在するのだと、確信した。
国際舞台という大きな世界。
日本という小さな国から出て、世界の地面に降り立ち、自分の演技・演奏をするという事。
私が去年、生まれて初めて日本を出てウィーンに行った時の事を思い出した。
誰も知っている日本人のいない、ウィーン国際空港のロビー。
ウィーンのコンチェルトハウスで、始めてシューベルト「野薔薇」の楽譜を開いてB先生の前に立ち、ピアノ伴奏のタイミングを見てブレスを吸い込んだ瞬間。
今は懐かしいけれど、今年の9月はもう既に、懐かしさなどに浸ってはいられないだろう事は明白。
ちなみに、キム・ヨナ選手の演技に関してはコメントは差し控える。
素晴らしい事は、別に私がブログに書くまでも無い事。
その他大勢の、フィギアスケート似非評論家紛いに、総てお任せする事にする(笑)
真央ちゃんのスケーティングのストレートラインステップの演技のような表現力と迫力と意思の強さを持って、私自身も歌の表現を出来るようになりたいなあぁ、と心から願う。